熊野古道紀伊路その9(湯浅〜御坊)

−急峻な鹿ヶ瀬峠を越える。熊野古道の雰囲気が色濃く残る石畳の道を辿る−

   

山行概要

日 程
2015年4月12日(日)
山 域
熊野古道紀伊路
天 気
晴れ時々曇り
メンバー
単独
コースタイム
JR湯浅駅=0:10=久米崎王子跡=0:35=津鎌王子跡=0:20=河瀬王子跡=0:10=馬留王子跡(東)=0:40=鹿ヶ瀬峠=0:25=金魚茶屋跡=0:10=沓掛王子跡=0:25=馬留王子跡(西)=0:15=内ノ畑王子跡=0:20=内原王子神社=0:35=善童子王子跡=0:15=愛徳山王子跡=0:10=道成寺=0:05=海士王子跡=0:15=JR御坊駅【4:50】

記録文(写真はクリックで拡大)

 昨日の布施屋から海南への歩みに続く連戦(熊野古道の直前区間の記録は、その8(紀伊宮原〜湯浅)へ)。
 和歌山駅6時6分発の始発で湯浅へ。

勝楽寺 7:02

 駅前からすぐにJRを潜り抜け、古い街並みを東へ抜ける。
 細かく分岐していくが、熊野古道の道標が、数多く付けられており、迷う心配はない。
 勝楽寺はR42の近くに建つ。

久米崎王子跡 7:05

 R42に出合うと反対側に、久米崎王子跡が現れる。
 この王子は、後鳥羽院の熊野御幸に随行した歌人、藤原定家が書き残した日記「熊野道之間愚記」の、建仁元年(1201年)10月10日条に登場し、参詣道より離れた場所にあったため、路傍の木に向かって拝したと記されている。

 また、「民経記」」(民部卿勘解由小路(かでのこうじ)経光の日記。全46巻で、闕失部分はあるが,鎌倉時代中期の公家社会の行事が克明に記されている重要史料)の承元4年(1210年)4月26日条にも「久米崎」なる王子があったと見える。しかし、その後荒廃したものと見られ、嘉禎2年(1236年)7月24日付けで鎌倉幕府は湯浅太郎(宗弘、紀伊国在田郡湯浅荘の地頭)に修復の命令を出しており、その中で「紀伊国湯浅庄久米崎王子社、破壊跡無云々」と述べられている(「関東御教書」)ほか、近世になってからも紀州藩主徳川頼宣も跡地に小社を造営して復興につとめた(「紀伊国続風土記」)とされる。明治40年(1907年)、近隣の顕国神社に合祀された。
 新広橋から国道を離れ、東へ、広川に沿って歩く。

新柳瀬橋から広川上流方面を望む 7:27

 なんとも長閑な光景が広がっている。
 ここで右岸から左岸へ渡り、国道へ再合流。広川ICまで国道を進む。
 広川ICの手前でぐるぐるとループ道を歩かされ、方向感覚が乱された挙句、津兼王子跡が現れた。

津兼王子跡 7:40

 広川ICの敷地横に石碑が立つ。
 すぐ近所に井関王子跡があり、ものの本ではこの2つは混同されているが、古くは津兼王子があり、後に津兼王子の遥拝所が井関王子になったとのこと。津兼王子跡には小さな祠があり、その所在はかなり確かなものであったが、湯浅御坊道路の建設により、広川ICの中央付近に埋められ、事務所裏の地に石碑が建てられている。
 これから向かう、少し南の井関集落内の「丹賀大権現社」に、井関王子と共に合祀されている。

丹賀大権現社 7:56

 井関バス停から国道を離れ、旧街道筋へ。古い屋敷が立ち並ぶ。この辺りは「旧旅籠通り」と呼ばれ、屋敷の前に古い屋号が掲げられている。
 井関集落の一番奥に丹賀大権現社が、山の急斜面にへばりつくように建つ。白河法王が熊野詣での途中体調を崩されたところ、白髪の老人が現れ、難儀を救ったとされる。このことを丹賀権現として祀ったのが創祀とされる。
 「伏見稲荷大社中紀奉拝所」の看板も立っていたので、お稲荷さんの系統なんでしょうね。

河瀬王子跡 8:00

 河瀬橋を渡り、河瀬の集落に入るが、入口に河瀬(ごのせ)王子跡が立つ。大きな岩ーが鎮座し、雰囲気のあるところだ。
 「熊野道之間愚記」建仁元年(1201年)10月10日条に、井関王子についで「ツノセ王子」に参拝したとあり、「民経記」承元4年(1210年)4月26日条には「角瀬川」と見える。しかし、この王子の呼称には異説が多く、川瀬王子(かわせおうじ、「紀伊続風土記」「紀伊名所図会」)、津の瀬王子(つのせおうじ、応永34年(1427年)の「熊野詣日記」)、角瀬王子(「南紀神社録」)など諸説あり、「和歌山県聖蹟」(紀元二千六百年を慶祝し、昭和12年より4箇年をかけて和歌山県下の聖蹟(天皇に関係のある、遺跡・史跡等)調査を実施した、上下2冊、本文1000ページを越える大著)は、「熊野道之間愚記」を根拠にツノセを本来の名としている。明治時代には川瀬王子神社となったが、明治41年(1908年)に津木八幡神社に合祀され、跡地を留めるだけとなったとのこと。

河瀬の街並み 8:03

 河瀬の屋敷にも、井関集落と同様、旅籠時代の古い屋号が掲げられている。
 集落を抜け、いよいよ山中に分け入る。

馬留王子跡(東) 8:10

 東の馬留王子は、室町期までの各種参詣記に記述が見えないことから、これらの参詣記の年代以降に成立したと見られる。
 しかし、江戸時代後期に紀州藩が編纂した地誌「紀伊続風土記」は馬留の名の由来について、「熊野御幸の時代に、この先の鹿瀬峠が険しいために馬で越えることが出来ず、馬を留めたことにある」としている。
 「和歌山県聖蹟」(1942年)には、1メートル角位の小さな社や数個の階段石、社殿跡と見られる玉砂利があったというが、現在は、標石が立つのみである。

鹿ヶ瀬峠越えの道 8:24

 いよいよ熊野古道紀伊路の難所、鹿ヶ瀬峠越えである。「大峠まで2030m」の標識の少し先で、車道をショートカットする古道の入口が現れるが、下草が生い茂っていたので、回り道を覚悟のうえで、車道をそのまま進む。
 傾斜が強まり、一気に高度を上げていく。さすがに汗が噴き出す。「大峠まで710m」の道標まで登ってくると、ご覧のような眺望が… かなり登ってきました。

広々とした鹿ヶ瀬峠越 8:50

 動物除けの扉を抜けると、最近整備されたらしい石畳道が現れ、傾斜がゆるやかに。
 峠の地蔵が現れると、鹿ヶ瀬峠はすぐそこだ。
 この鹿ヶ瀬峠は、標高約350m。藤原定家をして「次にまたシシノセの山をよじ昇る。崔巍の嶮岨(さんかいのけんそ)」と嘆かせた熊野古道屈指の難所である。その通り、結構疲れました。
 「蟻の熊野詣」といわれた熊野信仰の最盛期には茶屋が設けられ、賑わっていた様子が「紀伊国名所図会」にみられるが、峠は広々としており、その記述も納得である。

石畳が続く 9:06

 鹿ヶ瀬峠から薄暗い樹林の中の急坂をしばらく下ると小峠。ここから石畳の道が延々と500m余り続く。現存する熊野古道の石畳道としては最長のもので、日高町の文化財に指定されている。
 一気に下り切ると、公園状に整備された湿原ぽいところに出、ゆるやかに下っていくと金魚茶屋跡に降り立つ。実際に金魚を飼って旅人の旅情を慰めたという。

沓掛王子跡 9:30

 しばらく下ると道端に石碑だけが佇む沓掛王子跡。
 峠道を下りきったあたりを古い地名で王子谷といい、「熊野道間之愚記」建仁元年(1201年)10月10日条に「超此山参沓カケ王子」と記されている。
 またの名を鍵掛王子ともいう。峻険な鹿ヶ瀬峠越えの後では沓(わらじ)も相当に傷んでしまう。そこで、ひと休みして沓をかけ直したのでこの名がある。
 明治10年(1877年)、近くの弁財天社とともに原谷皇太神社に合祀された。

原谷の街並み 9:55

 原谷は、最高レベルの黒竹を生産する地として有名。
 黒谷は、中国原産で、青竹と比較して幹が細く外皮が黒いのが特徴。昔から釣り竿や、家具の装飾に使われてきた。
 その原谷黒竹民芸組合の横を過ぎ、例祭中だった原谷皇太神社の少し先に、西の馬留王子跡が現れる。

馬留王子跡(西) 9:55

 西の馬留王子跡は、「熊野道之間愚記」に記載は無いが、「三熊野駅跡之記」に「馬留王子原谷中往還の左」、「熊野道中記」には「同村中道の左ははざまの王子」との記録が残っている。
 この王子跡の少し手前に、「四つ石聖蹟地」があり、「熊野道之間愚記」にこちらは記載されており、この地で小憩した旨記されている。明治40年(1907年)、原谷皇太神社に合祀された。

内ノ畑王子跡 10:10

 しだいに谷筋が広がっていく中、なめら橋で西川の右岸に渡り、今熊野神社が現れると、内ノ畑王子跡である。
 この王子には、木の枝を刈って槌を作り、榊の枝を結びつけて持参する風習があったとされ、藤原定家も「熊野道之間愚記」建仁元年(1201年)10月10日条に、「槌をつくり、榊の枝につけて内ノ畑王子に奉納した」と記している。こうした風習により、当地では槌王子(つちおうじ)とも呼ばれた。
 明治41年(1908年)、すぐ隣の今熊野神社に合祀され、その後内原王子神社に合祀された。

内原王子神社 10:32

 長閑な景色から、徐々に街が近づいてきた。西川に架かる王子橋のたもとに内原王子神社があり、立派なトイレがある。
 この内原王子神社の社地が高家(たいえ)王子の旧址となっている。
 高家王子は、藤原宗忠(藤原北家中御門流の権大納言藤原宗俊の長男。従一位・右大臣)が摂関政治から院政への過渡期の政治上の要事を克明に書き留めた「中右記」の天仁2年(1109年)10月19日条に「大家王子」の名が見えるが、「熊野道間之愚記」には地名は見えるものの王子の記述はなく、「源平盛衰記」(平家物語の異本の一つ)巻40には平維盛が参詣したとある。王子のある字王子脇に隣接して東光寺という地名が残ることから、近世には「若一王子社」、「東光寺王子社」の名でも呼ばれていたとのこと。
 高家の名の由来は、当王子が、中世の高家荘5ヶ村の総氏神であったことによるらしい。
 JR紀伊内原駅への道を分け、県道を東に進む。萩原の集落を過ぎ、ゆるやかに登り下りをこなすと、地蔵坐像のある分岐。ここも真っ直ぐ進むと、すぐに善童子王子跡である。

善童子王子跡 11:10

 善童子王子は、「中右記」天仁2年(1109年)10月19日条に「連同持王子」にて大般若経があったと記され、「熊野道之間愚記」建仁元年(1201年)10月10日条にも「田藤次」と記されるほか、「善道子」「出王子」「出童子」「富安王子」などの数多くの別名があり、王子社の中でも最も多い。
 仁和寺蔵の「熊野縁起」(嘉暦元年(1326年))には、准五体王子の一つにあげられているなど、王子社の中でも歴史が古く重要な位置を占めていたとされる。
 明治42年(1909年)、湯川神社に合祀された。

愛徳山王子跡へ続く竹林 11:23

 善童子王子跡から、さらに東へ。富安橋を渡り、集落の中の狭い路地を抜けると、再び広々とした山間の道をのんびり下っていくと、やがて民家の間に愛徳山王子跡へ導く道標が現れ、竹林へ分け入る。
 そして、ぽっかりと開けた小平地に出ると、そこが愛徳山王子跡である。

愛徳山王子跡 11:25

 愛徳山王子跡は、「熊野道之間愚記」の建仁元年(1201年)10月10日の条において、連同持(善童子)王子の次に「・・次又愛徳山・・」とこの王子社の名が初めて記されており、鎌倉時代初期には所在していたことがはっきりしている。

 また、「明月記」(藤原定家の日記)の元久2年(1205年)正月1日条に「・・盛範愛徳山王子修造功・・」と熊野別当家の一族盛範が愛徳山王子を修造した功によって賞せられた記事があり、先ほどの善童子王子と同様、「熊野縁起」に、准五体王子に位置付けられるなど、鎌倉時代を通してかなり重要な王子とされていた。
 明治41年(1908年)、御坊市湯川町の八幡神社に合祀された。
 分岐に戻り、八幡橋を渡ると、道成寺へは東へすぐである。

道成寺本堂と三重塔 11:42

 道成寺は、大宝元年(701年)、文武天皇の勅願により、義淵僧正を開山として、紀大臣道成なる者が建立したという。別の伝承では、文武天皇の夫人・聖武天皇の母にあたる藤原宮子の願いにより文武天皇が創建したともいう。
 安珍・清姫伝説の舞台としても、あまりに有名。御朱印をありがたく頂戴し、境内のベンチでしばし休憩。
 先ほどの八幡橋へ戻り、西へ進むと、海士(あま)王子跡である。

海士王子跡 11:55

 海士王子跡は、「熊野道之間愚記」建仁元年建仁元年(1201年)10月10日の条に「クワマ王子」、「民経記」承元4年(1210年)4月26日条に「久和万」の記載が見られ、そこから転じて、海士(あま)王子になったとされる。
 周辺は、道成寺創建にかかわった文武天皇夫人宮子の生誕の地(九海士の里)との伝承があり、「海士王子」に祀られていた御神体の木像は、明治41年(1908年)に八幡神社に合祀された時に、道成寺に移され「宮子姫」の像として祀られている。

 川沿いの細道に西に向かい、重力踏切で線路を渡り、駅前へ続く車道をたどれば、JR御坊駅。本日の歩みはこれにて終了のはずだが、しばし延長戦を。
 御坊名物の「せち焼き」を目指して、「やました」のある辺りまでさらに西へ10分ほど歩く。しかし、店は既に満員であり、やむなく隣の「天下一品」へ。なんだかなぁ…

くろしお26号で帰洛 16:07

 さらにスーパー銭湯の「宝の湯」さんまで歩き、ここでのんびりと汗を流した後、16時8分発、京都まで直通の「くろしお26号」で快適に帰洛した。

 その10(御坊〜岩代)へ。

参考タイム

4/12JR湯浅駅 6:557:05 久米崎王子跡 7:057:40 津兼王子跡 7:408:00 河瀬王子跡 8:008:10 馬留王子跡(東) 8:108:50 鹿ヶ瀬峠(大峠) 8:559:00 小峠 9:009:20 金魚茶屋跡 9:209:30 沓掛王子跡 9:309:55 馬留王子跡(西) 9:5510:10 内ノ畑王子跡 10:1010:30 内原王子神社 10:3511:10 善童子王子跡 11:1011:25 愛徳山王子跡 11:2511:35 道成寺 11:5011:55 海士王子跡 11:5512:10 JR御坊駅

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