小菅の里散策(+前日の川中島、松代散策)

−かつては戸隠や飯綱と並ぶ北信濃の三大修験場として隆盛を誇った小菅の里を散策。小菅神社奥社までのルートは登山そのものだった…−

   
  

山行概要

日 程
2020年8月9日(日)
山 域
小菅の里
天 気
曇り
メンバー
単独
コースタイム
仁王門=0:05=小菅神社里宮=0:05=三ノ鳥居=0:20=隠岩=0:25=小菅神社奥社本殿=0:30=護摩堂・三ノ鳥居=0:10=仁王門【1:35】

記録文(写真はクリックで拡大)

 ようやく梅雨明けし、コロナ対応で決して暇ではないのだが、夏真っ盛りのこの時期に何とか4連休を確保した。
 本来なら、アルプスでテント縦走したかったが、何と今年はコロナ禍のもとで、ほとんどのテント場が予約制になっており、週末は既にどこも一杯であった(涙)…
 仕方がないので、日帰り登山を連発することにし、標高は物足りないが、まだ未踏で手頃な山が多い志賀高原周辺の山々に狙いを定め、宿を確保するが、何と、湯田中温泉3連泊という暴挙に走った(笑) 「Go To Travel キャンペーン」で35%オフの恩恵を受けてしまった…

 
   

 8/8 曇り

 連休前半は天気が不安定との予報だったので、登山はとりあえず諦め、前夜発はせず、枚方の自宅を5時に出発。とりあえず、これまでちゃんと訪れたことのない川中島にでも行くか。
 連休初日とは思えないガラガラの高速道路を順調に走行し、長野ICから5分ほどの川中島古戦場史跡公園へ。北側の駐車場の方が中心部の八幡社に近い。

八幡社 10:28

 公園内に八幡社が建つ。この辺りは、5度にわたり繰り返された川中島合戦で最大の激戦になった、第四次合戦(八幡原の戦い)において、武田軍が本陣をこの付近に置いたと伝えられる。

お約束の銅像が… 10:35

 境内には一騎打ちの銅像が… いくらなんでも一騎打ちはあり得ないと思います(笑)
 御朱印をゲットし、近くの典厩寺へ。

典厩寺の閻魔大王像 10:56

 典厩寺は、永禄4年(1561年)の川中島の第四次合戦で、武田信玄の弟・武田信繁が当地で討死したことに因み、合戦から60年後、松代真田藩初代藩主の真田信之が信繁の官職「左馬助(さまのすけ)」の唐名「典厩」から寺号を典厩寺と改めて菩提を弔ったものである。
 本堂の前には閻魔堂には、川中島合戦後300年を記念して造られた閻魔大王像があり、高さ約6mで、日本一大きいとされる。

典厩信繁の墓 10:59

 本堂の左手には自然石で出来た信繁の墓があり、墓の脇に佇む小さな供養塔は信之が幕府に遠慮して密かに弔った、実弟真田幸村(信繁)の供養塔であると伝えられている。
 信玄は、戦死した信繁の遺体を抱くと号泣したと伝えられ、敵軍の上杉謙信からもその死は惜しまれたという。武田家臣団からも「惜しみても尚惜しむべし」と評され、信玄旗下の宿将、山県昌景は「古典厩信繁、内藤昌豊こそは、毎事相整う真の副将なり」と評したという。また、真田昌幸は後に生まれた次男に「信繁」と名づけている。
 満足して、車で10分ほどの松代へ。

松代城太鼓門 11:21

 まずは日本百名城の松代城跡へ。城跡南側の駐車場に車を止め、平成16年(2004年)に復元された太鼓門から登城する。
 松代城は、元は海津城と呼ばれ、この城は北信濃を支配する上での軍事的・政治的に重要な拠点であった。
 江戸時代になると、元和8年(1622)に真田信之が上田城から松代藩主とし移封され、その後は、真田氏10代が10万石の城主として幕末までこの地を治めた。

松代城北不明門 11:28

 立派な枡形の太鼓門から本丸へ。本丸には御殿が建っていたらしいが、今は空き地になっている。
 太鼓門の反対側には、同じく再建され、枡形が立派な北不明門が建つ。

「日暮し庵」さんでランチ 11:50

 お腹が空いたので、やはり信州はそばでしょう! ということで、近くの「日暮し庵」さんに吸い込まれる。
 「とろろそば」を堪能〜
 松代は徒歩でも回れるくらい、こじんまりとした町並みだが、蒸し暑かったので、レンタサイクルを利用することに。町の南西方面に向けて漕ぎ出す。

旧白井家表門 12:08

 古い建築物が数多く残る松代の町並み。早速、大型の長屋門が登場する。
 これが旧白井家表門で、弘化3年(1846年)の建築らしい。もともとは別の場所にあったようだが、移築された。
 白井家は、松代藩の中級武士であり、幕末期の当主、白井平左衛門は、佐久間象山との親交が深かったようだ。

象山神社 12:17

 さらに南へ進むと象山神社。その名の通り、幕末の巨人、佐久間象山を祀る。
 大正2年(1913年)の象山殉難五十年祭を機に、地元出身の大審院長・横田秀雄を中心に神社建立が計画され、昭和13年(1938年)に創建された。この本殿は国登録有形文化財である。
 境内にはこの他、幕末の偉人のブロンズ像や、象山誕生地等があり、見どころは多い。

象山地下壕入口 12:36

 さらに南へ。町並みの一番南端に象山地下壕がある。
 象山地下壕は、太平洋戦争末期、日本の政府中枢機能移転のために松代の山中に掘られた松代大本営跡の一部である。
 帝都東京は、海岸から近く、広い関東平野の端にあることから、防衛機能が不安視されていた。そして、昭和19年(1944年)7月のサイパン陥落後、本土爆撃と本土決戦が現実の問題になったため、皇居、大本営、その他重要政府機関を移転させることとなった。全長約10kmの坑道を掘削するため、徴用された日本人及び朝鮮半島から動員された朝鮮人労務者が中心となり、突貫工事が進められたが、ポツダム宣言の受諾により、進捗度約75%の段階で工事は中止された。
 現在も、松代地震センター(実は核探知の施設とされている)や、信州大学の宇宙線観測施設等として、利用されている。

象山地下壕坑道内 12:36

 象山地下壕は、無料で坑内の一部約500mほどを見学できる。外は蒸し暑いのに、内部は肌寒いくらいだ。
 荒々しい坑道の壁面を眺め、歴史に思いを馳せながら、公道を往復した。

恵明寺 12:54

 町中に戻る。往路では見逃していたが、地下壕のすぐ南に象山恵明寺が建つ。佐久間象山の号は本寺に因んだとされる。
 延宝5年(1677年)、松代真田藩第3代藩主、真田幸道により、正室豊姫の墓所として創建され、本堂は文政8年(1825年)に消失したが、8年後に第8代藩主、真田幸貫により本堂、豊姫の霊屋(たまや)、鐘楼、庫裡が再建された。霊屋以外は、国登録有形文化財である。

山寺常山邸表門 12:58

 恵明寺のすぐ南には山寺常山邸がある。ここも往路時は見学してなかったので、立ち寄る。
 山寺家は松代藩の中級武士の家格で、幕末期には武士、兵学者、そして教育者として、幕末、明治を通じ活躍した山寺常山を輩出し、鎌原桐山、佐久間象山らとともにに松代の三山と称えられた。
 長屋門形式の表門は、全長約22mあり、松代城下に残る門のなかでは最大。また、書院も近代和風建築の秀作であり、背後の象山との調和も素晴らしく、ともに国登録有形文化財である。

大英寺 13:04

 町の東側に移動し、大英寺へ。
 大英寺は、小松姫(松代藩祖、真田信之の正室)の菩提寺で、現在の本堂はもと小松姫の霊屋で、元和6年(1620年)、上田城下に創建され、信之の松代移封に伴い、大英寺も移転した。
 真田氏の霊屋の中では最も古く最大級のもので、表門とともに、長野県宝(長野県指定の有形文化財)である。

旧前島家住宅主屋 13:14

 大英寺から、さらに東に向かうと、旧前島家住宅の表門が現れる。
 前島家は、代々真田家に仕え、禄高は200〜300石の中級武士の家格であった。
 現在の敷地は、幕末の屋敷地の約半分になっているが、敷地内に主屋、土蔵、三社、庭園が現存しており、宝暦9年(1759年)の建築との記録が残されている。
 現存する建物は、幕末期および昭和の修理によって改変を受けているが、主屋前面の池や、土蔵と三社を配した屋敷地は、江戸時代の武家屋敷景観を良好に保持しており、宅地全体が長野県宝に指定されている。

六文銭が映える長国寺本堂 13:25

 旧前島家住宅から南に下っていくと、広大な境内を持つ長国寺に到着。
 長国寺は、天文16年(1547年)、真田幸隆が開基となり、現在の長野県上田市真田町に建立した長谷寺に始まる。そして、真田信之の松代移封に伴い、長国寺も移転し、真田家の菩提寺となった。
 本堂や庫裏等は、何度か消失したが、代々藩主の霊屋は離れた場所にあったため、江戸時代に建てられた5棟の霊屋全部が幕末まで残り、うち松代真田藩初代真田信之、3代真田幸道、4代真田信弘の霊屋3棟は長国寺に現存しており、信之の霊屋は万治3年(1660年)の建立とされ、建物内外を極彩色と装飾彫刻で飾っており、表門とともに国の重要文化財に指定されている。
 また、信弘の霊屋は元文元年(1736年)の建立とされ、こちらは簡素な建築で、表門とともに長野県宝に指定されている。

旧松代藩鐘楼 13:41

 大体町並みを一通り見終えたので、自転車を借りた、観光案内所に戻るが、途中、旧松代藩鐘楼に寄り道。
 旧松代藩鐘楼は、真田信之が松代に移封直後に建てられたとされ、当初は火の見櫓の役割を兼ねていた。
 高さは約12m。昼夜の区別なく一刻(2時間)ごとに時刻を知らせたほか、城下で出火があった際にも鐘を撞いて非常を知らせていた。
 その後三度の火災に見舞われたが、その都度再建され、現在の鐘楼は享和元年(1801年)の再建で、長野市指定の有形文化財である。

「一田屋」さんで早々に昇天!@ 16:42

 松代探索終了。車で今日からのねぐらである湯田中温泉に移動し、チェックイン後、一風呂浴びてから、まだ16時半過ぎだったが、やることもないので、温泉街をウロウロしていたら、既に空けている焼き鳥屋さんがあったので、飛び込む。当然ながら客は私一人だった。
 もつ煮込みとハイボールでスタート!

「一田屋」さんで早々に昇天!A 16:50

 続いて、焼き鳥と砂ずりのコンボで、夕方からベロベロに。
 宿に戻っても、さらに酒を引っ掛け、泥酔状態でそのまま寝落ち…
 明日も天気は不安定らしい… どこ行こうかな?

 
   

 8/9 曇り後晴れ

 いったん5時に起きたが、小雨が降っていたので、二度寝…
 6時過ぎにまた目が覚めたが、何とか雨は止んでいたので、慌ててネットで検索すると、近くの飯山市に修験道場として栄えた小菅の里があり、里山全体が国の文化的景観に選定されているようなので、慌てて向かうことに。
 一気に高度を上げ、小菅の里に入ると、まずは仁王門が迎えてくれた。更に登ったところにある駐車場に車を止め、あらためて、仁王門に向かい、ここを小菅の里探訪のスタートとした。

仁王門 7:15

 もともとは仁王堂と呼ばれ、17世紀後半に元隆寺(小菅神社の起源で、役小角が開山した修験寺院)の西大門として建てられた建物で、両脇には金剛力士像が祀られている。仁王尊堂との別称もあり、道路改良で門の左右両側に道路が整備されるまでは、この門が小菅の入口であった。現在では門という機能ではなく、健脚の神である仁王尊が祀られている御堂とされ、草履などが奉納されている。
 神仏分離令で、多くの堂宇が破却されるなか、往時と同じ位置にある遺構として貴重な存在であり、長野県の県宝である。

小菅神社里宮鳥居と参道 7:22

 仁王門から坂を東に上がると、小菅神社里宮の鳥居があり、左折して参道を進む。
 小菅神社は、明治時代の神仏分離まで、小菅山元隆寺といい、かつては戸隠や飯綱と並ぶ北信濃の三大修験場として隆盛を誇った。創建は不詳だが、来由記によると、諸国を巡っていた修験道の祖・役小角が、白鳳8年(680年)に小菅山を開山し、大同年間(806−810年)には坂上田村麻呂がこの地を訪れ、諸堂を造営したほか、修験寺院・小菅山元隆寺を創建。これが小菅神社の起源とされている。また、平安後期になると、本地垂迹思想が定着し、熊野修験が入り込んで、小菅山のさらなる確立に寄与した。
 その後、室町時代に入ると、修験霊場としての隆盛期を迎え、小菅山では造営が営々と続けられていた。

小菅神社里宮拝殿 7:24

 戦国時代に入ると、信濃全域が上杉氏と武田氏の争覇の舞台となり、小菅山一帯は、上杉氏の庇護下に置かれたが、川中島の合戦で上杉軍が撤退すると、武田氏の軍勢によって元隆寺は兵火に遭い、本堂を除く堂塔はことごとく焼失したとされている。
 その後、武田氏を滅ぼした織田氏支配の時期を経て、小菅は上杉景勝領となり、情勢が安定すると奥社本殿が再建された。
 江戸時代に入り、奥社参道の杉並木や宗教建築の多くが整備され、霊場としての小菅の統治は、領主の庇護下にある寺院の手から里人の手に移った。祭礼の性格も宗教的なものから、参詣者に見せることに重きを置いた観光的な性格が加わったものになっていった。
 明治に入り、神仏分離によって、大聖院別当職が神職に就き、明治33年(1900年)には小菅神社と改称し、現在に至るのである。
 この里宮本殿は、万治3年(1660年)に、当時の飯山藩主、松平忠倶が再建したとの記録があるが、定かではない。

講堂 7:25

 里宮の東隣に建っている講堂は、もともとは元隆寺の中之院に属しているものだった。付近には、南大門や中門、金堂などが建っていたが、戦国時代の武田氏の侵攻でほとんどが焼失してしまったという。
 元禄10年(1697年)に飯山城主の松平氏によって修復され、中には阿弥陀三尊像が安置され、3年に1度、7月の中旬に柱松柴燈神事がこの前の祭式場で奉納される。

三ノ鳥居 7:30

 さらに登っていくと三ノ鳥居に出る。ここから石段の参道が始まる。そして両サイドは約600mの間、樹齢300年ほどの約180本の杉並木が続き、宗教色が濃厚である。

奥社参道 7:42

 この日は湿度が高く、ねっとり纏わりついてくる湿気に苦しみながら、登っていく。しだいに傾斜が急になっていく。

隠岩 7:50

 参道右手に隠岩が現れる。
 川中島合戦の際、武田軍の追っ手を避けて、上杉謙信が隠れたとされる。信玄は小菅の里まで追って来たが、山鳴りと共に突然大岩が崩れ落ち、追い打ちをかけるように大木が倒れて来たため、信玄勢は小菅権現の神威に恐れをなし、ほうほうの体で逃げ帰ったと言われている。
 この他、奥社参道には、様々な巨石が次々と現れる。

愛染岩 8:02

 石段が尽きると、普通の山道となり、傾斜がさらに増し、汗がさらに噴き出る。ただの山登りだ… 奥社本殿まで600mのポイントから100m刻みに標識が整備されているので、良い目安になる。
 ジグザグを数回切ると、岩壁の直下を進むようになり、落石が怖い… 岩壁の直下には小さなお堂が建っており、愛染堂と呼ぶらしく、恋愛成就の願いをかなえるらしい…
 この先、いったんゆるやかになるが、蝦蟇石を過ぎると、ルートが直登ルートと迂回ルートに二分される。私は直登ルートを取ったが、急峻な鎖場も現れるなど、なかなか急である。ここを突破すると、奥社本殿は近い。

奥社本殿 8:16

 やっと奥社本殿に到着。標高850m以上あり、完全に登山だった。汗だくである。
 本殿と付属宮殿は、室町中期の建築とされ、天正19年(1592年)の修復記録もあり、小菅神社の祭神8柱を祀る。昭和39(1964年)に国の重要文化財に指定された。
 ご本尊は馬頭観音だが、祭りなど特別な日以外は建物の中に入ることはできず、拝むことはできなかった。
 しばし休憩し、迂回ルートで下る。

護摩堂 8:50

 下りは三ノ鳥居まで一気に下る。石段は湿っており、スリップ注意だ。
 三ノ鳥居の南横には、護摩堂が建つ。
 ここには、元隆寺別当大聖院が建っていた。元隆寺は、最盛期には、上の院16坊、中の院10坊、下の院11坊の計37坊を有し、100の末院、6社、5堂が建ち並び、修験、山伏、僧侶が300人以上いたとも言われている。その総括をしていたのが大聖院であり、現在は護摩堂が建てられ、3年に1度の柱松行事の出発点のほか、火口焼きの神事も護摩堂脇で行われる。建物は寛延3年(1750年)に再興されたものである。
 また石垣も素晴らしく、これは「大聖院石垣」と呼ばれ、江戸時代末期、お台場を築いた地域の職人が造ったものだという。大きな石を使った梅鉢積み(石垣が梅の花びらが連なっているように積まれる)が特徴的である。
 里宮の宮司さんの家に寄り、御朱印を頂戴してから、小菅の里を後に、飯山市街を目指す。

飯山城本丸跡 9:27

 千曲川の畔にある飯山城跡を目指す。本丸跡は葵神社の境内となっている。
 飯山城がいつ頃できたのかは不明。泉氏の居城、後に高梨氏の支城を経て、戦国時代に上杉氏が甲斐武田氏に対する前線基地として本格的に改修し、属城とした。
 その後、江戸時代には飯山藩の藩庁が置かれ、目まぐるしく城主が入れ替わったが、享保2年(1717年)、本多助芳が越後糸魚川藩より入封し、以降本多氏10代が明治維新まで続いた。
 明治元年(1868年)、旧幕府軍衝鋒隊(幕府陸軍の歩兵指図役頭取古屋佐久左衛門が結成した組織。戊辰戦争で関東、越後、箱館を転戦した)の攻撃を受け城下を焼かれた(飯山戦争)。城の建物は、廃藩後に破却や焼失によって失われている。

城門 9:31

 三ノ丸への入口となる南中門跡に、かつての城門が移設されている。
 江戸時代の飯山城内には、15の門があったが、明治になり飯山城の取り壊しが始まると、城門は各地へ売却されたが、確実に飯山城の門と言えるものは長野市に移設された南大手門、神明町の妙専寺へ移設された本丸裏門(不明門)、長野市田子へ移設された門だけである。
 この南中門跡に移築された城門は、飯山市の丸山家に残されていた長屋門であるが、飯山城内のものか、上級武士の住宅の門か不明であるが、建物の部材の様式から、妙専寺山門、田子の城門と同じ作業場で製作された門と推定され、飯山城に関係した門のひとつとする根拠は充分にあるが、飯山城内のどこの門に該当するのかは判明していない。
 この門は平成5年度に丸山家の旧住居の解体に伴い、飯山市に譲渡され、移築復元したものである。

 天気もイマイチだし、10時前で行動終了。宿に戻り、昼前から酒を飲んで温泉に入り、昼寝するという超堕落。背徳感がハンパない(笑)…

「居酒屋 串道楽」さんで今宵もグダグダに…@ 18:57

 昼寝し過ぎた(笑)… 慌てて温泉街に繰り出し、駅前の「居酒屋 串道楽」さんに潜り込む。お店は盛況だった。
 長芋とハイボールでスタート!

「居酒屋 串道楽」さんで今宵もグダグダに…A 18:58

 豚バラ塩とタン塩を堪能…
 昨日と同様、宿に戻っても一人2次会を敢行し、この日も寝落ち…
 明日こそは、ちゃんと山に登れるのか?(笑)









参考タイム

8/9仁王門 7:157:20 小菅神社里宮 7:257:30 三ノ鳥居 7:307:50 隠岩 7:508:15 奥社本殿 8:208:50 護摩堂・三ノ鳥居 8:509:00 仁王門

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諸国名山探訪

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