東海道その7(三島〜原)

−天候急回復に慌てて飛び出す。少し消化不良なその7−

   
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山行概要

日 程
2023年12月31日(日)
山 域
東海道
天 気
雨後晴れ
メンバー
単独
コースタイム
JR三島駅=0:20=三嶋大社・中央町(はま寿司 三島中央町店)=0:10=伊豆箱根鉄道三島広小路駅=0:35=八幡神社=0:55=沼津市本町=1:25=JR片浜駅前=0:50=JR原駅【4:15】

記録文(写真はクリックで拡大)

 いよいよ今年も大晦日。年々年が経つのが爆速化していく。今年もあっという間だった… 今年も振り返れば、年間65山行と、2018年の66山行に次ぐ、ギリ2位の記録となった。昨年も61山行であり、1週間に1回以上、遊んでいるという驚異的なペースだ(笑) 何とか健康を維持し、ペースを保ちたいものです…
 それはそうとして、この日は、前日の予報では、昼過ぎまで雨との予報だった。なので、目覚ましも何もかけずに寝たが、9時前に目が覚めると、何と雨が止んでいる! 騙された! 慌てて荷物をまとめてチェックアウトする。昨晩、パチンコ屋でせしめた爽健美茶500mlペットボトル5本と、呑み忘れたハイボール500ml缶2本の謎のボッカである。何のトレーニングか(笑) この日は、静岡市内のホテルを押さえてあるので、担いで歩かざるを得ない。ホテルに捨て置こうとも一瞬考えたが、勿体ないので担いでしまった。ザックが肩に喰いこむ… こんなんで歩けるのかと思いながらも、小田原から、こだまに乗り、僅か15分で三島へ。
 今年初めの小田原・三島遠征以来、本年2回目の訪問だ。三島駅南口から、まずは東海道に合流するため、南方の三嶋大社に向かう。
 こちらは雨が止んだばかりか、濡れた路面を踏みしめながら、桜川沿いの遊歩道で南東に進み、三嶋大社総門の横に到達し、三嶋大社に参拝する。東海道の箱根関所跡から三島までをやった、約11年前以来の参拝だ。

三嶋大社拝殿 10:16

 三嶋大社の創建は不詳だが、天平宝字2年(758年)には既に「伊豆三島神」と記載があり、奈良時代には確実に存在していたと思われる。
 その後、中世に入ると、三嶋大社は、伊豆国一宮に位置づけられたほか、源頼朝が何度か戦勝祈願を行ったことから、鎌倉幕府から篤く崇敬された。以降も、室町幕府の鎌倉公方や、後北条氏、江戸幕府からも保護を受け続け、現在に至っている。

 主要社殿は、本殿、幣殿、拝殿からなる権現造の複合社殿で、「御殿」と総称されている。いずれも安政元年(1854年)の安政東海地震での倒壊後に再建されたもので、慶応2年(1866年)9月9日に落成した。
 社殿の形式は、寛永年間(1624−45年)の3代将軍家光による造営時を踏襲したものとされ、江戸時代を代表する建造物であるとして、国の重要文化財に指定されている。
 前回は、御朱印集めをしていなかったので、ありがたく頂戴し、参拝を終える。
 三嶋大社南端の大鳥居は東海道に面しており、三島宿の東見附跡は大鳥居から、約500mほど東にあり、既に東海道11番目の宿場町のど真ん中にいることになる。この辺りの東海道は県道22号線に沿っている。
 大鳥居横の、飲食店や土産店の立ち並ぶ「大社町西」交差点から、東海道歩き再開!と意気込んでスタートしたが、交差点の南東側に建つ「はま寿司 三島中央町店」さんが目に入ってしまう。そう言えば、慌ててホテルを出たので、朝から何も食べていない。「まぁ、でも10時過ぎたばかりだしな〜 まだ空いてないし…」と通り過ぎようとしたら、何と、「はま寿司」さん、休日は10時から営業していた(笑)
 あっと言う間に、吸い込まれる私…

「はま寿司 三島中央町店」さんで朝呑み@! 10:30

 いきなり生中を注入(笑) まだ、ほとんど歩いていないのに… 岩手県産うに軍艦と、焼津産かつおだしの特製茶碗蒸し!
 10時半から何やってんのか…

「はま寿司 三島中央町店」さんで朝呑みA! 10:31

 限定の生本ずわいがにと、炙りえんがわ!

「はま寿司 三島中央町店」さんで朝呑みB! 10:40

 活〆まだい、真あじ、まぐろ中トロ!

「はま寿司 三島中央町店」さんで朝呑みC! 10:52

 えび三種盛り、つぶ貝、ほたて!

「はま寿司 三島中央町店」さんで朝呑みD! 10:56

 あおさのみそ汁でフィニッシュ!
 生中2杯にハイボール2杯と、寿司15貫で、11時前からお腹いっぱい(笑)
 歩けるのか…

よろよろと再出撃… 11:09

 何とか腰を上げる。すっかり空は晴れ上がり、2階の店舗からは、富士の姿が望めた。
 酔っぱらっているせいか、飲料満載のザックがさらに重く感じる…
 三島宿の中心部を西進する。

「世古本陣址」の碑 11:14

 「本町」交差点西側の北側に「世古本陣址」の碑が立つ。南側には、もう一つの本陣である「樋口本陣址」の碑がある。
 世古本陣は、ハリスも泊まったらしい。
 三島宿は、東海道最大の難所であった箱根の険を控えるとともに、三嶋大社の門前町でもあり、さらには伊豆に向かう下田街道の追分も控え、天保14年(1843年)時点で、1025棟の家屋が立ち並び、本陣2、脇本陣3、旅篭数74を数え、大いに賑わった。
 江戸時代の三島は、天領で、伊豆国統治のための代官所も置かれていた。
 伊豆箱根鉄道の三島広小路駅を過ぎると、東海道は県道145号線に沿うようになり、さらに西へ進んで行くと、林光寺が街道北側に建つ。

林光寺 11:24

 林光寺を開山した故信(こしん)上人は、武田信玄の子で、勝頼の異母弟の信景であった。信景は、母親のたっての願いに応えて得度し、遠州相良(現:牧之原市)の林光寺で修業をしていた。
 その後、天正2年(1574年)には三島に移り、小庵を建てて念仏説法をしていたが、翌年の長篠の戦で、勝頼が、織田・徳川の連合軍に大敗を喫すると、武田家の家臣たちは、故信に対し、武田家再興に力を貸してほしいと願ったが、故信は、仏の教えを諭し、再興への思いを留まらせたという。
 上人に諭された家臣たちは思い直してそのまま三島に留まり、天正5年(1577年)に本堂を建立し、林光寺と称した。
 林光寺のすぐ西に、秋葉神社が鎮座しており、境内に「西見附跡」碑がある。

秋葉神社 11:27

 三島のまちは、冬になると富士からの吹きおろしの強風が吹き寄せるため、この時期に火災が起こると、いつも大火になりがちだが、特に、慶安元年(1648年)から宝歴2年(1752年)の間に、数度の大火に見舞われたことから、三島の西端である西の見附に、火防(ひぶせ)の神として信仰を集めている遠州の秋葉山本宮、秋葉神社の御分霊を祀る神社を創建したと伝wわっている。
 社殿は、安政元年(1854年)の大地震で倒壊し、現在も仮殿のままだが、三島で唯一の火の神として、広く市民の信仰を集めている。

境川 11:28

 三島宿を抜け、次の沼津宿を目指すが、秋葉神社のすぐ西に境川という小川が流れており、文字通り、三島市と清水町の境となっている。
 境川橋で川を渡るが、橋上には、「千貫樋(せんがんどい)」に関する案内板が建っており、橋の北側にその名の付いた鉄筋コンクリート構造の水路橋があるのだ。
 千貫樋は、三島市の小浜池の湧水を、清水町に灌漑用水として送水するために、境川の上に架設されたもので、全長約43m、幅約2m、深さ約0.5mで、地上高約4mの高さを流れる。
 稲作期のみの運用で、それ以外の時期は、水門で堰き止められるため水は流れない。
 創設された経緯については諸説あるが、天文24年(1555年)、今川、武田、北条の三家が甲相駿三国同盟を締結した際に、北条氏康から今川氏真に引出物として、小浜池から水路を築き、駿河の今川領に送水させたというのが一般的な説である。
 この疏水の完成により、現在の駿東郡清水町の玉川、伏見、八幡、長沢、柿田、新宿の田畑約139haが多大な恩恵を受けるに至った。
 建設費用に銭千貫を要したことから、この名が付いたと言われている。

新宿の秋葉常夜灯 11:30

 千貫樋のすぐ西には、立派な常夜燈が立っている。この辺り清水町の新宿という集落である。
 弘化3年(1864年)の建立で、両側にそれぞれ「秋葉大権現」、「富士浅間宮」と刻まれている。

「玉井寺の一里塚」の碑 11:40

 進行方向を南西に変えた東海道を進んで行くと、街道北側に玉井寺(ぎょくせいじ)があり、その傍らに「玉井寺の一里塚」の碑が立つ。
 日本橋から出発して29里目に当たるポイントである。盛り土もしっかり残っており、往時の面影を残している。

玉井寺本堂 11:41

 玉井寺は、永禄12年(1569年)の開創と伝え、臨済宗中興の祖といわれる白隠禅師縁のお寺である。
 なお、山門は開かずの門で、江戸時代の大名行列で不幸な出来事があり、それ以来山門を閉めて行列を見過ごしたという伝説が残っている。現在も開かずの門である。

「宝池寺の一里塚」の碑 11:41

 玉井寺から東海道を挟んで南側には宝池寺(ほうちじ)があり、その手前に「宝池寺の一里塚」の碑が立つ。
 宝池寺と玉井寺の一里塚を合わせて、この辺りの集落名である「伏見一里塚」と呼んでいる。  街道の両側に良く保存された一里塚が残っており、対で残っているのは、極めて珍しい。

宝池寺本堂 11:41

 宝池寺は、元亀2年(1571年)、昌林宗久和尚により、元伏見に開山されたと伝わる。
 その後、慶長7年(1602年)、昌雲和尚が現在地に移動させた。
 引き続き、県道145号線で、南西に進んで行くと、「八幡」交差点でR1を横断し、さらに進むと、右手に八幡神社の入口があり、立ち寄ることに。200mの参道が北に延びている。

八幡神社 11:56

 八幡神社の創立年代は未詳。駿河国の桃沢神社(長泉町元長窪)の故地とも、伊豆国の小川泉水神社(清水町湯川宮脇)のうち、八幡を遷し祀ったとも伝わる。
 富士川合戦の縁から、源頼朝の庇護を受け、社殿の再建、境内整備等が実施され、今川・北条氏も諸役免除・禁制等を付けた。
 徳川家康は、関八州移封後の天正19年(1591年)、これまで足柄越えであった東海道を箱根越えに改めた際に、西向きであった社殿を南向きにし、新しく長沢の地を割いて街道に面した参道を整備した。また、社領20石を給し、八幡大菩薩と刻んだ御神刀も奉納、天下太平を祈願した。
 以降も、駿河・伊豆両国境の神、街道守護の神として武門・武将はもとより往来の旅人、近郷近在の庶民にいたるまで篤い崇敬が寄せられた。

対面石 11:56

 境内の北奥には、富士川の合戦で源頼朝がこの八幡の地を本営とした際に、兄頼朝の挙兵支援のため、はるばる奥州から駆けつけた義経が対面した際に腰掛けたと言われる「対面石」が置かれている。

長沢の松並木 12:05

 街道歩きを再開。
 かつては、駿河と伊豆の国境であった、黄瀬川を渡る手前の、臼井国際産業さんの本社社屋の前には、松並木が街道の名残りをとどめている。

智方神社 12:06

 松並木が途切れたすぐ先の街道北側に智方神社が鎮座している。
 建武2年(1335年)7月23日に護良親王が鎌倉で斬首されたが、従者が首を奪い、京に持ち帰ろうとしたところ、黄瀬川の洪水に遭い、やむなくこの地に葬り、楠の木を植えて、目印にしたという。
 その後、南朝方だった北条時行が、首塚を神社とし、智方神社が創建された。
 当時は、北朝側の詮索を避けるため、御祭神の名を秘し、神前下馬の礼を諷示するため、白馬の伝説を仕立てたが、子々代々、密にこの口伝を固く守り続けたため、木彫御首級の御神体と白馬像、御首級墳が大切に保存され、今日に至ったとのこと。
 境内に今も残る大楠は、樹齢400年と言われ、清水町の指定文化財である。建武の頃と年数が合わないような気がするが(笑)…

潮音寺本堂 12:15

 黄瀬川を渡る。沼津市に入ってきた。
 県道380号線に吸収される手前の北側に潮音寺が建つ。
 潮音寺の本尊は亀鶴観世音菩薩で、菩薩の名の由来は、その昔、小野政氏というこの辺りの長者が子に恵まれないため、里の観世音菩薩に祈ったところ一女に恵まれ、その子は亀鶴と名付けられ、大層美しい子であったことから来ている。
 ちなみに、亀鶴は両親に早く死なれ、白拍子(しらびょうし:男装の舞妓)となり、その後、工藤祐経に召されたが、曽我兄弟の復讐で祐経が討たれると、黄瀬川上流の百沢の滝に身を投げたとの伝説が残っている。

平作地蔵 12:35

 西に進んで行く。だんだん市街地になってきた。県道380号線から左に分かれ、狩野川沿いに進む。
 黒瀬橋の北詰に平作地蔵がある。
 この地蔵尊はいつ頃創建されたか明らかではないが、日本三大仇討の一つ、「鍵屋の辻の決闘」における一場面で、有名な浄瑠璃「伊賀越道中双六」に登場する、沼津の平作に縁の深い地蔵尊として、その名を知られている。

 地蔵尊の建てられている場所に昔一軒の茶屋があり、主を平作といい、娘のお米(後の渡辺数馬の妻)に茶屋をやらせ、自分は旅人の荷担ぎを業としていた。そして、渡辺数馬の仇、河合又五郎の行方を知っている旅人十兵衛(二十数年前に別れた平作の子)に、お米の夫の為、平作は自害して、その居場所を聞きだそうとする。
 〜平作決心して自害し、「死にゆく仏の供養として聞かせてくれ」と申します。
 十兵衛はその情に引かされ、遂に明かす。
 「河合又五郎の落ゆく先は九州相良吉田で逢うたと人のうわさ」と〜
 浄瑠璃の名台詞で余りにも有名である。
 平作の情報と、数馬の義兄荒木又右ヱ衛門の助太刀で、首尾よく仇討の本懐を遂げることができ、平作の義侠心は後の人々の心を打ち、茶店のあった場所に一つの碑を建て、地蔵尊が建立された。
 以降、現在に至るまで、この地蔵尊は延命子育て地蔵(通称もろこし地蔵)として、長い間土地の人々の信仰を集めてきた。

川廓通り 12:48

 東見附跡が分からなかったので、気付いてなかったが、いつしか沼津宿に入っていたようだ。ようやく12次目である。
 狩野川が西から南にほぼ直角に流れを変えるのに合わせて、東海道もカーブするが、その辺りに「川廓通り」の標識が立っており、昭和30年代まであったとされる石畳が再現整備されている。
 通りの名の由来は、城や館内の区画を表す、「くるわ」で、その名の通り、東側は狩野川に面し、背後は沼津城の外廓に当たる東海道として形成されていた。
 通りは、狩野川の舟着き場に隣接するなど、物資や人々の交流が盛んであり、江戸時代の宿場町、城下町であった沼津の中心と言える場所であった。

「沼津宿」の標柱 12:55

 東海道は、沼津宿内を枡形を形成しながら西に方向を変えていく。
 本町に入った。この辺りが宿場町の中心で、高田本陣をはじめ、本陣、脇本陣跡が並ぶ。
 元禄時代、沼津宿には510軒の家があり、本陣が2軒、脇本陣が4軒、旅籠が78軒、茶屋が13軒あったという。

丸子神社・浅間神社 13:03

 東海道が再び西に進み始めた少し先の街道北側に、丸子神社・浅間神社が一扉二社という形でお祀りされている。
 丸子神社は、鉄工業を守護する神「金山彦尊」をお祀りする神社で、その創建は第10代崇神天皇(BC97年〜BC30年)の御代とも伝えられ、当初は、沼津市丸子町に奉斎された。
 第62代村上天皇、第96代後醍醐天皇の御代には天下泰平・武運長久の御祈祷所を仰せ付けられたが、江戸時代の火災により焼失し、浅間神社に御遷座された。

 浅間神社は、容姿端麗な女神とされる「木花開耶姫命」をお祀りする神社で、縁結び・安産・子育ての守護神として尊崇を受けている。
 その美しい姿から、桜をあらわす神様であり、富士山の神様とも伝えられており、富士山の恵みに感謝すると共に、噴火の鎮護として篤く信仰されていたが、延暦20年(801年)、坂上田村麻呂が東征凱旋の際、狩野川の右岸(沼津市宮町)に浅間神社として奉斎され、建仁3年(1203年)に現在の浅間町に御遷座された。

「六代松」の碑 13:22

 丸子神社・浅間神社を後に、北西方向に進んで行く。子持川に架かる幸橋の手前に、宿場町の西見附跡があり、ここで沼田宿を離れる。
 この辺りの東海道は、県道163号線で北西に進んで行くが、「東間門」というバス停の近くに、「六代松」の碑というものがあるようだったので、左折し、寄り道してみる。
 平六代(高清)は、平維盛(清盛の嫡孫)の息子であり、平家物語によると、六代は平家一門の滅亡に伴い、北条時政によって捕らえられ、鎌倉ヘ護送の途中、千本松原において処刑されようとしたが、文覚(もんがく:頼朝の庇護を受け、神護寺や東寺、西寺、四天王寺など、空海ゆかりの寺院の修復に努め、のちに神護寺の中興の祖と呼ばれた)上人の命乞いによって赦免となったが、その後、文覚上人の謀叛に連座し、処刑されたと伝えられている。

 六代の従者だった斉藤六範房は、六代の首を携え、縁の深い千本松原にやって来て、その首を松の根元に埋め弔ったと伝えられている。この松を土地の人は「六代松」と称し、親しまれてきたが、松が枯死したので、天保12年(1841年)に沼津藩の典医であった駒留正隆の撰文により、枯れた松の傍らに記念碑が建てられた。
 街道筋に戻る途中に、妙伝寺があったので、ここにも立ち寄る。

妙伝寺本堂 13:26

 妙伝寺は、慶長9年(1604年)の創建で、開基は日典(俗名:市川七郎左衛門家吉)という。
 当時の三枚橋(沼田)城主の大久保治右衛門忠佐は、当寺を大久保家の菩提寺と定め、創建時に寺領として田畑を寄進し、翌年には本堂・庫裡が建造された。境内には忠佐の墓碑が現存している。この他、忠佐が使用した陣太刀2振・槍1筋・馬具3組・大久保家譜などを所蔵している。

千本松原 13:34

 せっかくなので、千本浜を見ていこうと思い、西へ進んで行く。
 浜に出る手前に、防風林の千本松原がある。
 千本松原は、狩野川の河口から田子の浦にかけて松林が連なり、防風の役目だけでなく、松の常緑と白雪をいただいた富士山、そして駿河湾の彼方に沈む夕陽といった美しい自然で知られ、白砂青松100選にも選ばれている。
 天正8年(1580年)の武田氏と北条氏の戦いで切り払われたが、増誉上人(沼津市本出口町にある乗運寺の開祖)が5年の歳月をかけて植え直したと伝えられている。
 現在、千本松原の一部は園地化され、散策路や文人達の記念碑が整備されている。

千本浜 13:36

 防風林を抜けて、千本浜に出る。
 千本浜は、沼津港の脇から富士川河口までの、約19kmにわたる富士海岸の東端域に当たる。
 果てしなく砂浜が広がっていくが、海岸線に沿う形で造成された防潮堤が少々目障りである。東海地震で懸念される津波の被害を防ぐためなので仕方がないが…

金剛寺本堂 13:40

 海岸を離れ、街道筋に戻る。途中に金剛寺がある。
 金剛寺は、京都妙心寺の末寺で、本尊は大日如来。文覚上人が帰洛の途中、この地に持仏の大日如来を安置して庵を結んだのが始まりとされる。
 その後荒廃していたが、戦国時代に今川義元の宰相太原雪斎が中興した。その後再び無住となったが、江戸時代に、鐵舩和尚が中興し、現在に至っている。
 境内には本山の鎮守として稲荷社があるが、寺には江戸時代の彫刻師で、沼津藩主に見事な馬の彫刻を献上したことで知られる舟仙(しゅうぜん)作の狐面が伝わっており、共同墓地に墓がある。

沼津藩領境榜示杭 13:48

 やっと街道筋に戻る。300mほど西北に進むと、街道北側に「従是東」と刻まれた石の標柱が立っている。
 沼津藩領境榜示杭で、安永7年(1778年)、当時の沼津藩主、水野忠友によって建てられたもので、沼津略記に「二月六日 韮山代官ヨリ榜示杭來(長一丈、八寸角)…」との記載が残っている。
 これは、沼津藩の西限を示すもので、下石田にある東榜示と対応する。石製で、下半分は欠損しており、現在は「従是東」と刻まれているだけだが、下石田の杭の刻銘から、もとは「従是東沼津領」であったと考えられる。

西間門八幡宮 13:48

 沼津藩領境榜示杭のすぐ西に西間門八幡宮が鎮座する。
 西間門八幡宮は、慶長9年(1604年)の創建で、この辺りの旧西間門村の鎮守社である。
 さらに西北へ県道163号線を進んで行く。この区間、見どころは少なく、少し単調で、長く感じる。
 大諏訪という集落に入ってくると、北側に栄昌寺が建つ。

栄昌寺 14:07

 栄昌寺は慶長5年(1600年)の創建で、本堂前に生えるソテツは、樹齢400年以上を誇る。
 街道筋は徐々に北西から西寄りに方向を変えてきた。松長という集落に入ると、街道北側に「松長一里塚跡碑」が立つ。江戸日本橋から31里まで来た。
 さらに進んで行くと、南側に立派な山門を持つ連窓寺がある。

連窓寺山門 14:17

 連窓寺は、寛文2年(1662年)の創建。
 この辺りは、小田原藩大久保家の支藩であった荻野山中藩(現:厚木市中荻野)1万3千石の飛び地だったところで、陣屋が置かれていたが、山門は陣屋門を移築したものと伝わる。

祥雲寺 14:27

 祥雲寺は、永禄元年(1558年)、当時の久松家の領主、久松和泉守が、鎌倉建長寺より秀江禅師を迎え建立したとされる。久松家の祖は菅原道真とされており、境内に天神様が祀られている。
 本堂前には、立派な松の木が威風辺りを払っている。

今沢三島神社とご神木の緑マキ 14:29

 祥雲寺の西隣に、今沢三島神社がある。
 こじんまりとした社だ。永禄2年(1559年)の創建。
 参道の途中にある、ご神木の緑マキは、推定樹齢約450年で、幹回り4mを誇る。
 三島神社を後に、西へ歩み続ける。原踏切でJR東海道線の北側に出る。原踏切から400mほど街道筋を進むと、原宿の「東木戸(見付)跡」の標石があり、ようやく13次目の原宿に入った。
 標石の奥に神明宮が鎮座する。

神明宮 14:46

 神明宮は、享保14年(1729年)の創建。当然ながら、ご祭神は天照大神で、伊勢神宮の支社である。
 宿場内を西に進み、「大塚」バス停のある辻を左折する。この辺り、JR原駅の東側に当たるが、原宿に生まれ、臨済宗中興の祖と称された名僧白隠(はくいん)禅師縁の文化資源が集積しており、「白隠の里」と呼ばれているのだ。
 まずは、清梵寺(せいぼんじ)へ向かう。

清梵寺 14:53

 コンクリ造りのモダンな本堂だ。
 清梵寺の縁起だが、平安初期、安房国に得萬という信心深い長者がおり、朝廷から召され京から帰郷の途中、ここ原宿で、長旅の疲れから病気となり、亡くなった。従者は長者の遺言に従い、大きな塚を築いて手厚く葬ったという。
 その後、長者の妻は出家し、梵貞尼と名を改め、原宿の夫の墓に詣でた際、近くの網元の家で休んでいると、その網元が生前夫が信心していた地蔵尊を網にかけて持ち帰った。梵貞尼の孝貞に心打たれた網元も出家して清信禅居士と名を改め、梵貞尼と力を合わせて堂を建て地蔵菩薩を安置し、山号を得萬山と号し、清信、梵貞の2字を取った清梵寺を建てたという。
 大塚は、現存しており、昭和34年(1959年)に当時の教育委員会が調査した結果では、平安時代頃の古墳であると推定されている。

長興寺金刀比羅堂 14:55

 清梵寺の前から「白隠みち」と呼ばれる小道を西へ進むと長興寺がある。
 長興寺は、今から約640年前、康安年間(1361−62年)に、鎌倉建長寺を開山した大覚禅師の弟子、友嶽和尚が行脚中、原大塚の海辺にさしかかった時、海の響きに感応し、念持仏の虚空蔵菩薩を奉安して一堂宇を建立したのに始まる。
 堂宇の場所が砂州の上にあり、満潮の際に陸地から見ると海の上に浮かんでいるように見えたので山号を海上山としたと伝えられている。
 画像は金刀比羅堂で、毎年5月の最終日曜日か、6月第一日曜日に「奉納 赤ちゃん泣きずもう大会」がこのお堂の前で行われる。

長興寺本堂 14:55

 本堂は、戦前に台風のために損壊したため、しばらく金刀比羅堂を仮本堂として使用していたが、戦後間もなく本堂再建の気運が高まり、朝鮮戦争によるインフレで苦労するも、昭和29年(1952年)に再建された。
 建物は、現住職の松下宗柏和尚の先代住職、土方玄味和尚により、奈良の寺院「天平の甍」をイメージして設計されたとのこと。
 長興寺は、名僧白隠禅師が住職を務めた松蔭寺から徒歩3分の位置にあり、一時、火事や高潮で荒廃していたが、白隠禅師の道友・大義和尚によって再建され、全国各地から松陰寺に集まって来た修行者たちの宿坊として使われていた。

松陰寺 14:59

 長興寺から、さらに西に進んで松陰寺へ。
 松陰寺は、弘安2年(1279年)、鎌倉円覚寺無学祖元の流れを汲む天祥西堂が開山したと言われ、一時荒廃したが、再興され、江戸期には幕府から、原宿の禅宗寺院として公許されていた。
 松蔭寺がその名を全国に知られるようになったのは、臨済宗中興の祖である白隠慧鶴が住職になってからである。 原宿の商家の長澤家に生まれた白隠は、15歳で松蔭寺3世単嶺住職の元で得度し、慧鶴と名付けられた。

松陰寺山門 15:01

 慧鶴は諸国の修行に出た後、松陰寺には、慧鶴の兄弟子である透鱗が4世住職に就くも寺務に失敗し逐電したため、寺は荒れ果てたまま無住となっていたが、檀家や家族の意向により、慧鶴は原宿に戻り、享保3年(1718年)、白隠と号し、正式に松蔭寺5世住職に就任した。
 白隠の名声が高まるに連れ、松蔭寺には門弟が集い、数百人に及ぶ大集団を形成した。曹洞宗・黄檗宗と比較して衰退していた臨済宗を見事に復興させ、「駿河には過ぎたるものが二つあり、富士のお山に原の白隠」とまで謳われた。
 画像の山門は、石瓦葺が特徴の木造、切妻造りの平屋建ての門で、東海地方では類を見ないものであり、国登録有形文化財である。
 寺伝では、白隠禅師の考案とされていたが、後の調査で、白隠死後の文政年間(1818−31年)に作られたものと判明した。

西念寺本堂 15:04

 松陰寺の西隣に西念寺がある。西念寺の門前が、白隠誕生の地である。
 西念寺は山門・観音堂等を擁する望海景勝の寺であったが、何度か火災に遭い、現在の本堂は大正15年(1926年)の建立。
 境内に入って左手に菅原道真公をお祀りする天満宮があり、白隠も、幼少の頃よくご参詣したという。
 西念寺のすぐ西がJR原駅。本日は距離は伸ばせなかったが、実質、歩きだしたのは11時過ぎだったので、これで良しとする。
 爽健美茶500mlペットボトル5本と、呑み忘れたハイボール500ml缶2本を担いだ肩は、食い込んだ跡ができていた(笑)…

「本格板前居酒屋 お魚総本家 アスティ静岡店」さんで、悲惨過ぎる大晦日ぼっち宴@! 17:13

 原駅から静岡駅に移動し、駅にほど近いビジネスホテルにチェックインし、アテにしていた店に電話するも、大晦日で休業中〜 駅ビルならなんとかなるかと、アスティに入ったが、なかなか適当な店が無く、ようやく、「本格板前居酒屋 お魚総本家 アスティ静岡店」さんに滑り込む。私が悪いのだが、カウンターで両サイドはカップルに囲まれ、めっちゃ居心地悪い(笑)
 突き出しは、何と茶碗蒸しだった… 昼も食べたがな(笑)

「本格板前居酒屋 お魚総本家 アスティ静岡店」さんで、悲惨過ぎる大晦日ぼっち宴A! 17:21

 あん肝ぽん酢! 普通です(笑)

「本格板前居酒屋 お魚総本家 アスティ静岡店」さんで、悲惨過ぎる大晦日ぼっち宴B! 17:26

 蟹味噌甲羅焼き!

「本格板前居酒屋 お魚総本家 アスティ静岡店」さんで、悲惨過ぎる大晦日ぼっち宴C! 17:31

 アスパラ岩塩焼き!

「本格板前居酒屋 お魚総本家 アスティ静岡店」さんで、悲惨過ぎる大晦日ぼっち宴D! 17:35

 日本酒へチェンジ!
 安永4年(1775年)創業の超老舗、八戸酒造鰍ウんの「陸奥八仙 赤ラベル 特別純米」! とにかくまろやかな、万能タイプのお酒です。
 今年の夏の青森旅が蘇ります…

「本格板前居酒屋 お魚総本家 アスティ静岡店」さんで、悲惨過ぎる大晦日ぼっち宴E! 17:53

 続いて、山形県酒田市で、明治26年創業の東北銘醸鰍ウんの「初孫 魔斬(まきり) 生もと純米 本辛口」
 キレ味抜群のすっきりとした辛口で、魚料理にベストマッチングです。
 ちなみに、魔斬とは、酒田に伝わる、主に漁師などが使う切れ味の鋭い小刀で、魔を斬ることから、魔除けの縁起物とされている。

悲惨な年越し(笑) 20:21

 すっかりええ調子で、気が付けばパチンコ屋に吸い込まれ、さらに気が付けば、3万円ほどすっていた…
 悲惨な大晦日になってきた… コンビニでそばを買い、ホテルで部屋呑み… 昨年の大晦日も名古屋のカプセルサウナでの年越しだったし、まぁ、こんなもんです…

参考タイム

12/31JR三島駅 9:5510:15 三嶋大社・中央町(はま寿司 三島中央町店) 11:1011:20 伊豆箱根鉄道三島広小路駅 11:2011:55 八幡神社 12:0012:55 沼津市本町 12:5514:20 JR片浜駅前 14:2015:10 JR原駅

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