尾張富士・尾張大宮山

−背比べ伝説が残る愛知の名低山を回遊−

   

山行概要

日 程
2023年1月2日(月)
山 域
犬山市近郊
天 気
晴れ
メンバー
単独
コースタイム
大宮浅間神社本宮=0:20=尾張富士(大宮浅間神社奥宮)=0:25=明治村大駐車場=0:15=池野T字路=0:05=ヒトツバダコ自生地=0:25=泉浄院=0:15=尾張本宮山=0:20=池野T字路=0:30=大宮浅間神社本宮【2:35】

記録文(写真はクリックで拡大)

 駐車場からすぐに大宮浅間神社の境内へ。御朱印を頂戴しつつ、参拝。

大宮浅間神社本宮 8:19

 尾張富士の麓に本宮、中腹に中宮、山頂に奥宮が置かれる。
 大宮浅間神社の創建は、社殿では天平元年(729年)2月に邇波(にわ:古代におけるこの辺りの呼称)の有力者の末裔、道直の観請によって建立された。主祭神は、木花開耶姫命と天照大神。
 当初は、尾張富士山頂に鎮座したが、祭祀・参詣に不便であり、山麓に遷された。
 古くから、武将や名門の信仰が厚く、織田信長は社殿を造営寄進し、また、関ヶ原の合戦直後に犬山城主を務めた小笠原和泉守吉次からは、山林や田畑の寄進を受けた。さらに、徳川・成瀬(小笠原、平岩氏に続き、犬山城主を元和2年(1616年)から明治維新まで務めた)の両家からも種々の神宝の奉納があり、毎年、国家安泰の祈願がなされた。

尾張富士登拝口 8:20

 境内の東側から尾張富士に登拝する参道が始まる。岩が露出し、なかなか険しい光景だ。
 ちなみに、大宮浅間神社の毎年8月の第一日曜日に行われる例祭「石上げ祭」は、尾張三大奇祭の一つと称されている。
 尾張富士山頂に大石を積み上げるもので、昔、ある信者が尾張富士へ登り、参籠祈願を行った。その夜、夢枕に木花開耶姫命があらわれ、尾張富士と隣りの本宮山を比べると尾張富士がやや低いことを嘆いたという。そこで、この信者は木曽川の大石を尾張富士の山頂に積み上げると、信者の願いがかなったという。このことを聞いた五郎丸村(現犬山市)の村民が尾張富士に大石を奉納し、富貴長命、子孫繁栄、五穀豊穣を祈願したという。これが周辺の村にも伝わり、盛大に行われるようになったという。
 この「石上げ祭り」が行われ始めた時期は不明であるが、天保7年(1836年)頃から現在の形になったという。

大宮浅間神社中宮 8:27

 途中、立派な石段が現れ、登り切ると、小平地があり、こじんまりとした中宮が鎮座している。

献石 8:29

 ラジオ界の大御所で、東海地方のレジェンド、つボイノリオの献石が(笑)… さすが名古屋…
 これ以外にも、参道の両側には全国各地からの献石が立ち並んでいる。

ピーク直下は急登 8:35

 距離的には僅かだが、ピーク直下はかなりの急登。舐めてたらキツい。

尾張富士山頂 8:40

 本宮からちょうど20分で尾張富士山頂。奥宮が鎮座する。四等三角点が設置されているが、展望は良くない。
 息が整うのを待ってすぐに下山を開始する。

下山道 8:47

 山頂から南東方向の明治村方向へ下山を開始。
 山頂からしばらく石段を下るが、すぐに車道に合流し、下って行くと、ヘアピンカーブが現れ、カーブの頂点から、送電線鉄塔の巡視路と思われる山道が延びており、これを下る。道標が全くないので不安だったが、すぐに車道に飛び出し、さらに下って行くと、明治村の大駐車場の前に出た。
 特に問題となるような箇所は無かったが、駐車場から下ってきた車道を振り返ると「関係者以外立入禁止」の看板が立っており、逆コースの場合は注意が必要。
 ここで県道453号に合流し、道なりに下って行けば、正面に入鹿池が広がって来る。歩道が無いので車に注意である。

入鹿池@ 9:13

 入鹿池は、寛永5年(1628年)、鈴木作右衛門、江崎善左衛門ら「入鹿六人衆」と呼ばれる浪人たちにより、小牧・春日井方面の台地開発のために築造が計画された。
 折から新田開発に力を注いでいた尾張藩主の徳川義直により藩の事業として採用され、何度も失敗を重ねた末、河内国から大和川の付け替え等の経験がある技師を招き、「棚築き」の工法により、ようやく寛永10年(1633年)に完成した。
 池の完成により新田ができ、藩の収入も増大したと記録に残されています。満水面積約183ha、周囲約16km、容積1680万?を誇る、香川県の満濃池と並び、日本一、二を競う人造溜池である。

入鹿池A 9:15

 明治元年(1868年)4月下旬から、烈しい雨が降り続き、同年5月14日には堤体の一部が決壊し、この洪水で約1000人もの死者を数え「入鹿切れ」と呼ばれる。
 決壊後、入鹿池は明治から昭和にかけ下流の河川とともに少しずつ修復され、堤体の増築も行われた。
 平成22年(2010年)3月に農林水産省の「ため池百選」に選定され、平成27年10月にはICID(国際かんがい排水委員会)の世界かんがい施設遺産に登録されている。
 現在は、名古屋近郊のボート釣りのメッカとして知られ、今の時期はワカサギ釣りで賑わう。

神明社・白山社相殿 9:24

 池畔を南下し、池野簡易郵便局を過ぎた所で右折し、西に進んで行くと、池野T字路に着く。北側に神明社・白山社が鎮座し、T字路の南西角には「ローソン 犬山入鹿池店」が建つ。
 神明社・白山社の創建は不詳だが、寛永年間(1624−44年)と見込まれている。
 主祭神は、天照大神、菊理媛命(くくりひめのみこと:全国の白山神社に祀られる白山比盗_(しらやまひめのかみ)と同一神とされる)である。
 ローソンに寄り道し、ドリンク休憩の後、T字路を南に進む。コンクリ打ちっぱなしの廃墟のあるところで右折し、細い車道を進む。愛知用水を渡った先に物々しい壁に囲まれた一軒家があり、近づいていくと、威嚇するような大音量の英語の放送がけたたましく流れ、何と中から鎖で繋がれていない大型犬が飛び出してきて、吠え倒してきた。
 こちらも大声で吠えて、何とか撤退させたが、めっちゃ怖かった… ここを通過するときは注意が必要です。

ヒトツバダコ自生地 9:35

 ならず者一軒家を何とか突破し、さらに車道を進むと、右手にヒトツバダコ自生地が現れる。
 ヒトツバタゴはモクセイ科の植物で、別名「なんじゃもんじゃ」と呼ばれる国の天然記念物。犬山市では、文政5年(1822年)に発見され、集団で自生が確認されるのは国内では珍しく、大正12年(1923年)に国の天然記念物に指定された。
 現在、自生地内には7本のヒトツバタゴが自生しており、毎年5月中頃に4つに深く裂けた白い花が開花し、満開時にはまるで雪がかぶったように見えるとのこと。
 国内では木曽川中流域と対馬に分布し、国内の自生地で国の天然記念物に指定されている場所は、この他の他に岐阜県中津川市、恵那市、瑞浪市、土岐市と、長崎県対馬市のみである。

尾張信貴山泉浄院多宝塔 9:53

 ヒトツバダコ自生地から山道となり谷を詰める。最初は明瞭だが、やがて踏み跡は細くなり、藪も濃くなってくる。紛らわしい分岐が左手に分かれたり、なかなか苦戦する。我慢強く谷筋を詰めていけば、しだいに明瞭な山道となり、一気に谷を詰めると、泉浄院の一角に飛び出した。
 東側から回り込むと、石段があり、登ると目の前に尾張信貴山泉浄院の多宝塔が現れる。
 朱色が鮮やかな多宝塔は、昭和37年(1962年)の建造。石山寺多宝塔を模した和様の造りで、一辺が約5.5mある比較的大きな多宝塔である。

泉浄院本堂からの展望 10:00

 多宝塔から参道を登って行く。尾張本宮山に続くルートを右に分け、参道は左を進む。
 最後は石段を登ると、信貴山山頂で、泉浄院の本堂が建っている。信貴山山頂は、小牧山合戦の時、豊臣勢の陣地であったところで、陣ヶ峰とも呼ばれている。
 本堂横は舞台造りとなっており、名古屋市街方面の展望が開ける。
 泉浄院は、昭和7年(1931年)、名古屋の資産家と犬山氏楽田の有力者とが協議し、「商」と「戦」に関係が深い毘沙門天を本尊に迎え、毘沙門天の総本山、大和の信貴山の毘沙門天を勧請して創建したといわれている。
 分岐まで戻り、本宮山へ。

尾張本宮山山頂の大縣神社奥宮 10:17

 大した登りもなく、尾張本宮山の山頂へ。
 本宮山頂には、大縣神社奥宮が鎮座し、大縣大神の荒魂を祀っている。
 尾張本宮山は大縣神社の神体山として、古来より「日出る山」「朝日の射す山」と云われ、古来より朝廷を始め、武家民衆からも篤い信仰を集めている。
 大縣神社の創建は、社伝によれば、始め濃尾平野を見下ろす本宮山の頂に鎮座していたが、垂仁天皇27年(BC3年)8月に現在の地(犬山市字宮山)に遷座しれたと伝えられており、延喜式神名帳には名神大社として登載されている古社で、尾張圀二ノ宮である。

 帰路は東の尾根を一気に下り、愛知用水のところで往路に合流。池野T字路を左折し、尾張富士の山麓を時計回りに回って、大宮浅間神社本宮に戻った。
 好天に恵まれた木漏れ日ハイクでした。

参考タイム

1/2大宮浅間神社本宮 8:208:40 尾張富士(大宮浅間神社奥宮) 8:459:10 明治村大駐車場 9:109:25 池野T字路 9:309:35 ヒトツバダコ自生地 9:3510:00 泉浄院本堂 10:0010:15 尾張本宮山 10:2010:40 池野T字路 10:4011:10 大宮浅間神社本宮

山行データへ

諸国名山探訪

Copyright(C) Hiroshi Fujita All right reserved

inserted by FC2 system