桜ノ宮から京橋

−大阪市街を散歩してからの朝呑み&スロット三昧(笑)−

   

山行概要

日 程
2023年6月10日(土)
山 域
大阪市街
天 気
晴れ
メンバー
単独
コースタイム
JR桜ノ宮駅=0:10=櫻宮=0:35=天満橋北詰=0:35=JR京橋駅=0:20=野江水神社=0:20=JR京橋駅【2:00】

記録文(写真はクリックで拡大)

 暑さで低山は不向きなシーズンになって来た。そうなると休日は腰を据えてスロットを打ちたくなる(笑)…
 前夜は宴会で痛飲したが、せめてもの罪滅ぼしと、早朝の涼しいうちに、10kmほど歩くこと(何の罪滅ぼしや(笑))にし、5時台の電車で枚方を発進し、JR桜ノ宮駅へ。この駅、降車するの初めてとちゃうかな…
 駅西口から南へ、大川(旧淀川)左岸の遊歩道を南へ進む。10分ほどで道路を挟んだ反対側に鳥居が見え、最初の目的地である櫻宮に到着。

櫻宮 6:16

 櫻宮の創建等は、兵火・洪水などに度々遭ったため神宝記録が紛失し、不詳であるが、元は東生郡野田村(旧東野田町)の氏神として祀られたのが始まりとされる。
 何度か淀川の水災に遭い、社地を転々としたが、延宝2年(1674年)の水禍後、大坂城代の許しを得て現在の地に還座した。
 現本殿は、昭和20年(1945年)6月7日の第3回大阪大空襲で焼失後、戦後に復元されたもの。
 主祭神は、 天照大御神、八幡大神、仁徳天皇の3神。市街のど真ん中で、境内も小規模ですが、静かで厳かな境内でした。

源八橋から天満橋方面を望む 6:23

 桜ノ宮駅に戻り、駅前で左折し、源八橋で大川を渡る。
 橋上からは、天満橋界隈のビジネス街が一望。ビルの狭間に大阪城の天守も見える。

「源八渡し跡」の碑 6:27

 橋を渡り、右岸沿いに上流方向に少し遡ると、「源八渡し跡」の碑が立っている。
 源八渡しは、江戸時代の元禄末(1700年頃)には、既に存在していた記録が残っており、名の由来も人名から来たとする説、地名に因む説と様々である。
 大川左岸の都島側は農村であったが、京街道にも近く、右岸は、大坂城代配下の与力などの役宅が並んでいた。さらに桜の名所があることから大へん賑わったという。上流の「平田の渡し」と共に有名であった。
 昭和11年(1936年)6月に源八橋が架橋され、それによって渡しの使命は終った。

泉布観 6:38

 大川右岸の毛馬桜之宮公園を南下する。帝国ホテル大阪などの高層ビルが立ち並んでいる。
 R1の桜宮橋の手前に「泉布観(せんぷかん)」と呼ばれる趣ある建築物が建っている。
 泉布観は、お雇い外国人の英国人、トーマス・ウォートルスの設計で、明治4年(1871年)、造幣寮(現在の造幣局)の応接所として建設された。
 完成の翌年に明治天皇が行幸し、貨幣を意味する「泉布」と館を意味する「観」から泉布観と命名された。明治帝自身も3回も訪れるなど、皇族や外国の要人を数多く迎えた。
 現在は大阪市が管理しており、大阪最古の洋風建築であり、国の重要文化財にも指定されている。
 内部公開は、毎年3月の3日間だけだが、外観は常時公開されている。しかし、まだ朝の6時台と言うことで、鉄柵越しに眺めるのみ…

造幣局本局 6:39

 R1を少し西に進むと、道路南側に造幣局本局が建つ。
 言うまでもなく、独立行政法人造幣局の本局で、硬貨の製造、勲章・褒章及び金属工芸品等の製造、地金・鉱物の分析および試験等を担っているが、紙幣の製造は行っておらず、これは独立行政法人国立印刷局で行われている。知らなかった…
 構内には、本局の電力を賄うために建てられた旧火力発電所のレンガ造りの西洋建築物があり、現在は造幣博物館として活用されている。

「大塩の乱 槐(えんじゅ)跡」の碑 6:42

 本局前から少し西に進んだ歩道内に、「大塩の乱 槐跡」の碑が立っている。
 この地は、大塩平八郎が天保8年(1837年)に決起後、初めて放った大砲の弾が着弾した場所で、大塩邸向かいの与力宅裏庭にあった樹齢200年超の槐の木が生えていたという。
 このため、大塩平八郎の乱が始まった場所とされている。

「洗心洞跡」の碑 6:44

 さらに少し西に進むと、造幣局南門があり、職員用の社宅が建っており、「関係者以外立入禁止」の看板が貼られていたが、構わず侵入し、「大塩の乱 槐跡」の碑の真南の場所に立っている「洗心洞跡」の碑を目指す(ごめんなさい)。
 「洗心洞」は、江戸時代の儒学・陽明学者で天満与力の、大塩平八郎の私塾兼邸宅跡で、平八郎はここで教育と著述に専念していたという。
 天保年間(1831−45年)は凶作が続き、庶民は疲弊し切っており、平八郎は自分の蔵書を処分して救済するなどしたが、それに対する幕府の無策に憤激し、準備の整わないまま、天保8年(1837年)2月19日、窮民救済と政治の覚醒をめざして挙兵した。
 この乱自体は、半日で鎮圧されたが、その影響は各地に波及、一揆が続発して幕府に大きな打撃を与えた。

「川崎東照宮跡」の碑 6:48

 R1に戻り、少し西の「薩摩っ子ラーメン 東天満総本店」さんの手前の辻を左折し、南に進んで行くと、大阪市立滝川小学校が東側に建っているが、その正門横に「川崎東照宮跡」の碑があった。
 川崎東照宮は、家康一周忌の元和3年(1617年)4月17日、当時大阪藩主であった松平忠明(母が家康の長女)により創建された。周辺地域はいずれも秀吉によって造成された町であるため、豊臣色を払拭する大坂城修築工事と同様に、川崎東照宮も同様の意図で創建されたと考えられる。
 例祭の「権現祭」は、毎年4月17日(家康の命日)及び9月17日と定められ、4月の祭の際は、境内が特別に開放され、一般町人にも家康肖像の拝観が許され、一説には約10万人もの参拝者が訪れる「浪花随一の紋日」として、大坂中随一の賑わいを見せたと言われている。
 また、春・秋両祭の前々日である15日から5日間は、幕命により大坂の各町では家々の軒先に提灯が掲げられ、その様は大坂の春と秋の風物詩と言われる程であったが、一方で、同社は、豊臣家を懐かしむ口汚い大坂町人の一部から「胡乱(うろん)」(胡散臭い)と思われていたらしいことも記録に残されている。
 川崎東照宮は、大塩平八郎の乱で社殿を焼失し、後に再興したが、その後の鳥羽・伏見の戦いの後に大坂中が混乱状態に陥った際に、忠明の子孫であり川崎東照宮の庇護者であった、奥平松平家第12代当主で武蔵国忍藩の藩主松平忠誠(ただざね)の手配によって、その御神体は、忠誠の居城の忍城内に鎮座する忍東照宮に移された。
 維新後、明治天皇の大阪行幸において、豊國神社造営の勅が発せられたことなどから、反徳川・豊臣礼賛の機運が一気に高まると、敷地が造幣寮(現・造幣局)に充てられることとなったため、明治6年(1873年)、川崎東照宮は廃絶した。

天満橋北詰 6:55

 1本西の天満橋筋に出て、南下を続けると、天満橋があり、橋のすぐ上流で、ほぼ直角に曲がって来た大川を渡る。
 天満橋は、大川に架かる難波橋、天神橋と共に浪華三大橋と称され、昭和10年(1935年)の完成で、橋長は151m。
 上下階式構造の橋で、上層は「天満重ね橋」とも呼ばれ、大川南の土佐堀通をも同時にまたぐ跨道橋になっている。天満橋南詰には「天満橋」交差点があり、ここより北を天満橋筋、南を谷町筋と呼ばれている。

寝屋川橋西詰 7:02

 「天満橋」交差点を左折し、土佐堀通を東へ進む。
 OMMやテレビ大阪の社屋の間を抜けると、寝屋川橋で寝屋川を渡って行く。
 もともとは京街道の起点であった京橋が架かっていた場所で、昭和初期、京阪天満橋駅の拡張工事の時に天満橋の上流にあった淀川の中洲を削り、同川岸の湿地帯や寝屋川の一部を埋め立て、R2に代わる町路(土佐堀通)が設けられた際、昭和4年(1929年)、橋長94.5mの「寝屋川橋」として架橋された。

「京橋川魚市場跡」の碑 7:04

 寝屋川を渡った、橋の北詰東側に「京橋川魚市場跡」の碑が立っている。
 京橋川魚市場、石山本願寺の時代の鮒市場が起源だとされ、元は漁民が川魚を持ち寄って市を開いていたらしい。
 慶長年間(1596−1615年)の初頭に市場としてのシステムが整えられ、幕府から大坂で川魚を独占的に扱うことを許された市場となり、明治末期に中之島へ移転した。

「のだばし址」の碑 7:15

 寝屋川橋から、さらに土佐堀通を東へ進んで行くと、「片町東」交差点で、斜め左に入る街路に入って行くと、道に囲まれた三角形の土地に「のだばし址」の碑が立っていた。
 「のだばし」は、かつてこの付近に、寝屋川と平行して流れていた鯰江(なまずえ)川に架けられていた橋で、京街道に当たることから重要視され、江戸幕府から、これより下流にあった備前島橋と、京橋とともに、幕府が直接管理する公儀橋に指定されていた。
 鯰江川が埋め立てられる昭和初期まで存在した。
 一つ先の辻で左折、北上すると、R1に当たるので、右折し、東に少し進むと、JR環状線のガード下をくぐる。
 ゴール地点のJR京橋駅は、すぐ南だが、時間調整のため、かつて歩いた京街道沿いにさらに少し北に寄り道する。

野江水神社 7:50

 アーケードを抜け、何となく旧街道筋の趣きが残っている通りを北上、都島通りに当たり、右折してすぐの「野江4丁目」交差点の少し先の北側に野江水神社が鎮座している。京街道を歩んだ時以来、5年振りの参拝だ。
 野江水神社(のえすいじんじゃ)は、水波女大神(みずはのめのおおかみ)を祭神とし、一般には水神社・水神さま・水神宮・野江神社などと呼ばれている。
 天文2年(1533年)、三好政長が榎並城を築く際、たびたび水害を被ったので、水火除難の守護神として城内に小さい祠を造営し、祀ったのが起源で、明治18年(1885年)の大洪水で社殿が倒壊したため、明治21年(1888年)に現在の社殿に再建された。
 ちなみにこの辺りにあった榎並城は、江口の戦い(天文18年(1549年)6月12日から24日にかけて摂津江口城(現在の大阪府大阪市東淀川区)において三好長慶と同族の三好政長が衝突した戦いで、長慶が勝利した。江口合戦とも呼ばれる。)で8箇月間持ちこたえた堅城であるのにもかかわらず、あまり記録が残っていないらしい…

「丸徳」さんで、朝呑み@! 8:19

 京橋駅付近まで戻ると、8時過ぎ。9時45分からの抽選券配布に向けて、1杯引っ掛けるにはちょうど良い塩梅だ。
 8時から営業している「丸徳」さんへ。8時を少し過ぎたばかりなのに、すでに席は半分ほど埋まっていた(笑)…
 生中と肉どうふでスタート!

「丸徳」さんで、朝呑みA! 8:23

 生しらすと平目刺し! 生シラスは、通常の半分しか残ってなかったということで、サービスにしてくれた。

「丸徳」さんで、朝呑みB! 8:39

 稚鮎の天ぷら! 朝から順調に杯を重ねる私(笑)…

「丸徳」さんで、朝呑みC! 8:59

 ラストは、ゴーヤ玉子焼き! すっかりベロベロで良い感じだ〜 この状態でギャンブルすると、押さえが効かなくなるんです。完全に廃人のやり口…

13番目を確保! 9:46

 そして9時45分になり、抽選へ… 無事に16番目を確保する。この店の北斗の台数は28台もあるので、余裕だ〜
 10時に入店、脇目も振らず北斗のコーナーへ。今日はあえて前日データ等を一切確認せず、直感で台を選ぶ。
 400Gほどで初当たりし、以降、初当たり5回を数えたが、なかなか連チャンせず、じりじりと負けが込んで行く…
 しかも、6回目の初当たり以降、ドはまりし、1200Gまで引きずり込まれる。こうなると1268Gで天井の恩恵に期待するしかない。しかし、「もうすぐ天井だ!」との期待も空しく、ここで中段チェリーを引いてしまった… 天井ストッパー発動! 最悪! と思っていたら、32G消化し、「これで本当に天井だ!」と思った直後に、まさかのラオウ登場… ホンマに最悪…
 しかも、BBは2連で終了〜 何やねんこれ! 泣きそうになってきた… この時点で34000円のマイナス…
 なけなしの持ちコイン200枚が無くなったら帰ろうと思った矢先、ロングフリーズ発生!!!!!!!!! やった…

驚異のBB94連(笑)! 20:18

 継続率94%の無想転生バトルが直撃し、それから、7時間近くループが続いた… 完全にこのマシン、壊れました(笑)…  結局、94連目にラオウ昇天(笑)… 今日のケンちゃん、無双でした…

234500円! 20:27

 収支ほぼ20万円プラスの大勝利! 素晴らしい! やり切りました! ケンちゃん、ありがとう!!
 こういう時こそ、大人しく帰ろうと思い、どこにも寄らず、意気揚々と帰宅しました。

参考タイム

6/10JR桜ノ宮駅 6:056:15 櫻宮 6:206:55 天満橋北詰 6:557:30 JR京橋駅 7:307:50 野江水神社 7:508:10 JR京橋駅

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諸国名山探訪

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