淀屋橋周辺名建築探訪

−名建築が建ち並ぶ淀屋橋界隈を散策してからの朝呑み&スロット三昧(笑)−

   

山行概要

日 程
2023年7月17日(祝・月)
山 域
大阪市街
天 気
晴れ
メンバー
単独
コースタイム
京阪淀屋橋駅=0:20=勝海舟寓居跡=0:25=大阪倶楽部=0:05=京阪淀屋橋駅【0:50】

記録文(写真はクリックで拡大)

 海の日の三連休の最終日。結局、昨日は中部地方の天気がすっきりとせず、家で用事を片付けるに留まる。今日は全国的に晴れの予報だが、中部山岳日帰り爆弾ツアーはなぁ…
 と言う訳で、この日もルーティンの早朝市街地散歩から朝呑み&スロット三昧という超自堕落的行動へ。

 京阪淀屋橋駅を下車。地上に上がって、土佐堀通を東進し、栴檀木橋(せんだんのきばし)の南詰から始まる三休橋筋(さんきゅうばしすじ)を南下する。

大阪市中央公会堂と栴檀木橋 6:43

 土佐堀通と三休橋筋との交差点から北側に目をやると、栴檀木橋とその背後に大阪市中央公会堂が建つ。
 つい3週前にも、中之島を歩いた際に訪れたばかりだ。

吉田理容所 6:44

 三休橋筋を南に進み始めて、すぐ右手にレトロな理容店が目に入る。これが吉田理容所だ。
 吉田理容所は、昭和5年(1930年)開業の理髪店で、当初は9〜10軒長屋だったようで、そのうち5軒が現存している。
 店内には開業当時そのままのドイツ製の5枚の大鏡が、今も現役で活躍している。

旧緒方洪庵住宅(適塾) 6:46

 吉田理容所から一つ南の辻を右折し、内北浜通を少し西に進むと、通りの南側に旧緒方洪庵住宅(適塾)がある。
 緒方洪庵は、言うまでもなく、幕末を代表する医者・蘭学者・教育者であり、適塾は、洪庵が天保9年(1838年)に開いた私塾で、門下生には、大村益次郎、橋本左内、福沢諭吉、佐野常民ら、幕末から明治にかけて日本を指導した錚々たる面々を数多く輩出した。
 現在の建物は寛政年間(1789−1801年)の建築で、多くの刀傷が残る部屋もあり、国指定の重要文化財である。

旧八木通商ビル(グランサンクタス淀屋橋) 6:48

 三休橋筋をさらに南に進んで行くと、今橋通との交差点の南西角に旧八木通商ビル(グランサンクタス淀屋橋)が建つ。
 旧八木通商ビル(画像の低層部分)は、大正7年(1918年)、旧大阪農工銀行の社屋として、東京駅を手掛けた辰野金吾の設計で建てられ、昭和4年(1929年)には、大阪を拠点とした建築家の国枝博(朝鮮総督府庁舎や滋賀県庁舎本館を設計)によって改修された。テラコッタタイル(土を成型して焼いた素焼きタイルで、土の自然な色むらと素朴な風合いが特徴)が美しく、窓周りのアラベスク模様(アラビア風の植物文様)が印象的なビルで、昭和43年(1968年)から、輸入衣料品等の販売を手掛ける八木通商鰍フ大阪本社社屋として使用されていたが、平成25年(2013年)、低層部に既存ビルのファサードを復元した分譲マンション「グランサンクタス淀屋橋」として生まれ変わった。
 さらに南下し、高麗橋通との交差点の南東角には、旧大中証券ビル(高麗橋ビルディング)が建つ。

旧大中証券ビル(高麗橋ビルディング) 6:49

 旧大中証券ビルも辰野金吾の設計で、明治45年(1912年)に大阪教育生命保険鰍フビルとして建てられ、その後、大中証券鰍フ社屋として使われた。
 赤レンガの外壁に、白い石によってボーダーラインを描いたデザインが特徴で、現在は、ウェディング会場として使用されている。

日本キリスト教団浪花教会 6:50

 旧大中証券ビルの南隣には、日本キリスト教団浪花教会が建つ。
 浪花教会は、昭和5年(1930年)に梅花女学校の教会堂として、設計・施工は竹中工務店が行ったが、設計の指導をヴォーリズから受け、建設された。
 ゴシックスタイルの大きなアーチ窓のステンドグラスが印象的な教会で、当時の姿のまま、現在も使用されている。
 さらに南下し、薬の街である道修町に入る。道修町通を右折すると、田辺製薬や塩野義製薬の本社ビルが建ち並ぶ。

「大阪薬科大学発祥の地」の碑 6:54

 塩野義製薬本社ビルの公開空地の一角に「大阪薬科大学発祥の地」の碑があった。
 明治37年(1904年)、この地に「大阪道修薬学校」が創設され、大正14年(1925年) には「帝国女子薬学専門学校」に改組され、日本で最初の女子薬学専門学校となった。
 戦後、昭和24年(1949年)の学制改革により「大阪薬科大学(現:大阪医科薬科大学)」となり、同時に男女共学となり、現在に至るが、大学の所在地は、創立4年後から大阪府内各地を転々と移転し、平成11年(1999年)以降は、高槻市の奈佐原という場所に落ち着いている。
 記念碑は、平成16年(2004年)5月9日、大学創立100周年を記念し、開校記念日に除幕された。

「勝海舟寓居・海軍塾(専稱寺)跡」の碑 7:00

 三休橋筋に戻り、再び南下し、淡路町通との辻を右折すると、すぐ南側のビルの敷地の一角に「勝海舟寓居・海軍塾(専稱寺)跡」の碑が立っている。
 元治元年(1864年)、勝海舟は、大坂の寓居先であった専稱寺(せんしょうじ)に、私塾の海軍塾を開き、全国から有志を集め、坂本龍馬をはじめ土佐脱藩浪士、紀州藩士、鳥取藩士、福井藩士などが在籍し、塾頭は庄内藩出身の佐藤与之助(政養(まさやす)。農民出身ながらその才を買われて登用され、維新後は鉄道技術者として、日本初の鉄道路線となる新橋−横浜間の鉄道敷設に尽力した)が務めた。
 海舟は3箇月後には幕府の海軍操練所開設のため神戸に移り、私塾も神戸の海舟邸に移された。
 淡路町通を西に引き返し、三休橋筋も横断し、さらい東に進むと通りの北側に船場ビルディングが建つ。

船場ビルディング 7:01

 船場ビルディングは、大正14年(1925年)の建築で、外観はタイル張りのデザインである一方、内部は細長いパティオ風で、吹き抜けとなっているのが特徴である。
 各階はその周囲に回廊が巡らされ、それに面して店舗や事務所が混在する、機能性重視の設計となっており、国の登録有形文化財に登録されている。
 現在の所有者は、明治18年(1885年)創業の老舗化粧品メーカー、鞄穀J順天館のグループ会社である桃井商事鰍ナ、管理運営も行っている。

綿業会館 7:04

 三休橋筋に戻り、南下すると、備後町通との辻の北東角に、綿業会館が建つ。
 綿業会館は、かつて繊維のまちと呼ばれた大阪の繊維業界の発展と懇親を目的に設立された日本綿業倶楽部のビルとして昭和6年(1931年)に竣工した。
 外観はアメリカンボザール形式(石造建築の一形式。左右対称形を基本にして、柱のオーダーを中心に建築物の全体を基本寸法の倍数と約数とで構成した、比率の調和の取れたデザインで、記念建造物的な堂々とした外観が特徴)という様式で、内装は世界の多様なデザインが取り入れられており、各国の要人が来館し、国際会議もしばしば開催された。
 国指定の重要文化財であるが、現在も、会議場のほか、現役の会館として利用されている。

愛珠幼稚園 7:18

 備後町通を右折し、西へ進んで、一筋西の丼池筋(どぶいけすじ:かつてこの辺りにあった難波薬師の境内に大きな池があり、これを丼池と呼んでいたことが通り名の由来)に当たると右折し、北上する。
 今橋通の交差点の北東角に愛珠(あいしゅ)幼稚園がある。
 愛珠幼稚園は、明治13年(1880年)に開園された大阪最古、国内でも3番目の幼稚園で、園舎は現存する木造の幼稚園園舎としては日本最古であり、国指定の重要文化財である。
 また、江戸期には、この地に銅座が置かれ、重要な輸出品である銅の精錬を管理し、当時唯一、外国との窓口になっていた長崎へ送る役割を担っていた。

浮世小路 7:24

 今橋通を西に進み、御堂筋を横断し、1本南の細い通りを西に進む。
 この高麗橋通と今橋通に挟まれた狭い通りは、江戸時代には質屋、風呂屋、色宿などが並び、隠れ部屋、接待部屋に使われたことから浮世小路と呼ばれていた。
 船場魚棚筋に当たると、この筋を北上、今橋通との交差点の北東角には大阪倶楽部が建つ。

大阪倶楽部 7:25

 大阪倶楽部は、大正元年(1912年)に英国風会員制社交クラブとして創立された、一般社団法人大阪倶楽部の会員制会館として、建設されたが、大正11年(1922年)に失火のため焼失し、現在の建物は、東京の日本橋野村ビルや大阪瓦斯ビルヂングを手がけた安井武雄の設計による大正13年(1924年)の再建である。
 ガスビル、綿業会館とともに近代大阪の三大名建築といわれており、国の登録有形文化財である。
 現在も変わらず、大阪倶楽部の会員制会館として利用され続けている。

三井住友銀行大阪本店 7:27

 船場魚棚筋をさらに北上すると、土佐堀通に当たる手前の南西側に重厚で威圧感のある三井住友銀行大阪本店が建っている。
 三井住友銀行大阪本店は、旧住友本社と連系各社の本拠であった「住友ビルデイング」として建築された、東西74m、南北84mに及ぶ大規模建築物で、大正15年(1926年)に建物北側の第一期工事、昭和5年(1930年)に南側の第二期工事が完成した。
 北東西の3箇所ある各エントランスには竜山石(たつやまいし:兵庫県高砂市伊保町竜山に産する流紋岩質凝灰岩の石材で、上品さと素朴さが相まったやさしい表情・風合いが印象的)を積み円柱に堂々としたイオニア式オーダー(古代ギリシャの建築様式の一つで、細身の円柱で、ドリス式より軽快かつ優雅で、概してフルーティング(溝彫り)が施される)が施されている。
 濃淡のある竜山石の風合いが生かされた分厚い壁に、奥行きのある縦長の窓が規則的に刻まれ、そこに生まれる陰影が、重厚で質実な印象をもたらしている。

「手形交換所発祥の地」の碑 7:27

 三井住友銀行大阪本店の東エントランス前の広場の南北両端双方に石碑が立っており、南側には「手形交換所発祥の地」の碑がある。
 明治12年(1879年)、振出銀行の異なる手形や小切手を交換して決済する日本で初めての手形交換所が設置されたのがこの地であり、東京より9年も早く開設されており、当時は、大阪が金融の中心地だったことが偲ばれる。

「松瀬青々生誕地」の碑 7:28

 広場の北端には「松瀬青々生誕地」の碑が立っている。
 青々は大阪市出身の俳人で、子規に「大阪に青々あり」と賞賛を受け、「ホトトギス」の編集にも携わり、「関西の高浜虚子」との異名を取った。
 「菜の花の はじめや北に 雪の山」の句が有名である。
 土佐堀通に出て、淀屋橋駅へ。淀屋橋の南詰界隈をぐるっと一周した。だいぶ暑くなってきたので、本日の歩行はこれにて終了〜
 いつものルーティン発動!(笑) 京阪電車で京橋に向かう。

「丸徳」さんで、朝呑み@! 8:08

 この日は安定の「丸徳」さんへ。8時オープンの奇跡の居酒屋。今日は珍しく、私が一番乗りだ。
 きびなご刺しと肉豆腐でスタート!

「丸徳」さんで、朝呑みA! 8:27

 カウンター上に並んでいる総菜の中に、鮎の塩焼きがあったので、チョイス!
 しっかり焼き直して、たで酢もしっかり提供される本格派である。

「丸徳」さんで、朝呑みB! 8:46

 「丸徳」さんに来ると、いつもオーダーしてしまうゴーヤ玉子焼き! 焼酎麦ソーダ割にチェンジし、朝からベロベロ〜
 しかし、「京橋会館&GENESIS」の入場抽選はまさかの50番目ということで、スマスロ北斗はゲットできず、不本意ながら、隣の「パチンコ グランシャトー」さんへ。北斗は確保できたが、恐らく低設定だろう… と言う訳で、3時間ほど格闘したが、マイナス2万円…

「中華そば 丸岡商店 京橋本店」さんで、〆! 13:36

 失意の中、「丸岡商店」さんに吸い込まれてしまい、ニラそばをチョイス! いつもながらの安定の臭さ(笑) 負けてヤケクソなので、明日仕事だがおかまいなしである。
 またしても虚しい休日が終わろうとしていた…

参考タイム

7/17京阪淀屋橋駅 6:407:00 勝海舟寓居跡 7:007:25 大阪倶楽部 7:257:30 京阪淀屋橋駅

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