磯長の里散策

−古墳が点在する、奈良盆地の「へそ」磯長の里を巡る−

   

山行概要

日 程
2022年11月3日(祝)
山 域
磯長
天 気
霧後快晴
メンバー
単独
コースタイム
近鉄結崎駅=0:15=糸井神社=0:15=比賣久波神社=0:40=近鉄但馬駅=0:20=黒田大塚古墳=0:35=唐古・鍵遺跡史跡公園=0:35=近鉄田原本駅(本誓寺・浄照寺・津島神社)【2:40】

記録文(写真はクリックで拡大)

 またまた好天予報の祝日。早朝の電車で奈良へ向かう。この日は磯長の里で古墳巡りだ。
 近鉄の結崎(ゆうざき)駅下車。初めて降りる駅で勝手が分からん。
 今年の6月に完成したという新しい駅舎を出ると、駅前広場の中に古墳が存在する。これが佐々木塚古墳である。

佐々木塚古墳 7:08

 佐々木塚古墳の築造年代は出土した須恵器や埴輪から、5世紀中頃と推定されるが、古墳の本格的な調査がなされておらず、埋葬施設等は不明。
 現状は直径30mの方墳に見えるが、周囲の開発のせいで縮小され、本来は直径40mほどの円墳ではないかと考えられているが、これも不明。
 古墳を後に、川西町役場の前を通る車道を真西に進んで行く。役場を過ぎ、左にカーブしながら進んで行くと、右手に糸井神社が現れる。

糸井神社 7:25

 糸井神社の祭神は、豊鍬入姫命(とよすきいりひめのみこと:第10代崇神天皇の皇女で、天照大神の宮外奉斎の伝承で知られる巫女的な女性)で、中世には「結崎宮」、江戸時代には「春日神社」とも呼ばれた。
 参道には石灯籠が建ち並び、最古のものは慶長8年(1603年)の銘で、川西町で最古。「糸井神社縁起」によれば、応神天皇の時代に呉の国から渡ってきた「あやはとり」と「くれはとり」の2人の織り姫が、天皇の命により綾錦を織ったという。
 「あやはとり」は綾羽明神として、「くれはとり」は呉羽明神として祀られ、2人の織り姫は、「太平記」や「椿説弓張月(曲亭馬琴作・葛飾北斎画の読本で、鎮西八郎為朝と琉球王朝開闢の秘史を描く、勧善懲悪の伝奇物語)」などの文学作品にも登場する。

「面塚」の碑 7:27

 糸井神社から南へ。すぐに寺川を渡るが土手に「面塚」と記された石碑が立つ。
 室町時代に始まる観世流は、流祖である観阿弥と能を大成した世阿弥父子が、現在の川西町にあった大和猿楽四座のひとつ「結崎座」を拠点として興した。
 伝承によると、室町時代のある日、空から「翁の能面とネギ種」が降ってきたことから、村人たちは、それらは何か重大な意味があると話し合い、能面を埋め、ネギを植えたところ(ネギは現在、大和野菜として知られる「結崎ネブカ」として名物になっている)、観阿弥、世阿弥が結崎に移ってきて、春日大社や興福寺の能に参勤しながら芸道に励み、後に室町幕府三代将軍足利義満に見いだされ、能の極みへと達していったという。
 観世流にとって非常に重要な地であることから、昭和11年(1936年)に観世流24世宗家左近師の筆跡で「面塚」の碑が建てられた。

霧に煙る島の山古墳 7:37

 「面塚」の碑から西に進んで行くと、霧の中から周濠を有する割と大きな古墳が登場。これが島の山古墳で、15年前に太子道(筋違道)を歩いて以来の再訪。その時は調査中で濠の水が抜かれていたな…
 島の山古墳は、盾型の周濠を含めた長さは265m、幅175mに及ぶ前方後円墳で、築造時期は4世紀末〜5世紀初で、この時期の古墳としては最大規模を誇り、三宅古墳群を代表する古墳である。
 後円部中心に竪穴式石室があったようだが、過去の盗掘で副葬品の多くは既に持ち出されていた。平成8年(1996年)の調査で前方部頂から粘土槨が検出され、中からは勾玉など、多数の埋蔵品が出土し、これらは国の重要文化財に指定されている。
 古墳を反時計回りに進んで行くと、古墳西側に比賣久波(ひめくわ)神社が鎮座する。

比賣久波神社 7:40

 比賣久波神社の祭神は、久波御魂命(くわみたまのかみ)、天八千千姫(あまやちよひめのみこと)。ともに記紀に名が見られないが、養蚕に深い関わりのある神らしい。
 川西町内には2つしかない「延喜式神名帳」に名を連ねる式内社で、本殿は一間社春日造り・屋根は檜皮葺で、春日大社摂社若宮神社から移築されたものとして、県指定有形文化財に庁内で唯一指定されている。
 比賣久波神社の神宮寺であった箕輪寺において、瀬戸焼の祖である加藤景正が箕輪焼と呼ばれる陶器を作ったとの伝承がある。

寺の山古墳 7:49

 比賣久波神社から濠沿いに南下し、県道108号線に出合い、少し東に県道を進んだ所で右折し、細道を南下すると、三宅町に入り、目の前にこんもりとした小山が見えてくる。これが寺の山古墳である。
 5世紀後半頃に築造された全長32mの前方後円墳で、後円部径20m、高さ3.5m、前方部幅21m・高さ3.5mだが、前方部は原型を留めないほど破壊されており、今は円墳にしか見えない。
 円筒埴輪、家形埴輪等が採取されており、墳丘に埴輪の配列がなされていたと推測される。

茄子塚(花子塚)古墳 7:53

 寺の山古墳から東へ墓地の中を進み、安養院のところで右折し、南下していくと、またこんもりとした小山が左手に見える。茄子塚(花子塚)古墳である。
 茄子塚(花子塚)古墳は、周囲が削られて原型をとどめておらず墳形は不明だが、径18mの円墳と推定されている。ただ、茄子という名称を考えると、前方後円墳だったようにも推測できる。
 周辺から出土した土器により、5世紀末から6世紀の築造とされている。

アンノ山古墳 8:01

 茄子塚(花子塚)古墳から、さらに南下するとアンノ山古墳があるが、標識がないととても古墳とは思えない。
 元々は、前方後円墳だったようだが、墳丘が大幅に改変されており、出土遺物も不明で築造年代を推定する材料はないが、三宅古墳群の他の古墳と同様、5から6世紀頃の築造で、前方後円墳だった可能性が高いと言われている。

瓢箪山古墳 8:05

 アンノ山古墳から西に進んで行くと、畑の中に顕著な小山が見える。
 これが瓢箪山古墳で、墳丘長約40m、後円部径約26m、周濠幅約6〜12mの前方後円墳とみられ、現状の墳丘斜面が垂直に近いことから、大幅に削平されていることが考えらる。出土資料から6世紀前半の築造らしい。
 瓢箪山古墳から南に進んで行くと、飛鳥川に突き当たり、川沿いの遊歩道をしばらく進む。但馬駅の横で近鉄田原本線を横切り、2つ目の辻を左折し、東へしばらく進むと田原本町に入る。法楽寺の看板があり、境内へ。

法楽寺 8:34

 法楽寺も15年振りの再訪。
 法楽寺は、第7代孝霊天皇の黒田廬戸宮(くろだいおとのみや)跡に建立され、聖徳太子の開基と伝えられている真言宗の寺院で、室町時代には堂宇数25を数えたが、兵火で焼け、現在は本堂1坊のみとなった。
 孝霊天皇の皇子とされる吉備津彦命(きびつひこのみこと)が桃太郎のモデルといわれていることから、この地は「桃太郎誕生の地」と呼ばれている。

黒田大塚古墳 8:40

 法楽寺のすぐ東に顕著な古墳があり、これが黒田大塚古墳。ここも15年振りの再訪。
 前方後円墳で、墳丘周囲には幅8mほどの周濠が巡らされており、周濠を含めた古墳全長は86mにおよぶ。周濠内からは埴輪のほか、鳥形・蓋形木製品、碧玉製管玉、滑石製双孔円板が出土しているが、埋葬施設は未調査のため明らかでなく、副葬品も明らかでない。
 黒田大塚古墳は、古墳時代後期の6世紀初頭頃の築造と推定され、奈良盆地中央部では数少ない後期大型前方後円墳であり、奈良県指定史跡である。

笹鉾山1号墳 8:52

 黒田大塚古墳から路地を南に進み、県道197号線に出合うと左折し、県道を道なりに東へ進む。京奈和自動車道の高架下を抜け、近鉄橿原線を横切ると、右手の畑の中に小山が現れる。これが笹鉾山1号墳である。
 この辺り笹鉾山古墳群と呼ばれる後期古墳群があり、前方後円墳1基と円墳4基の計5基が確認されている。1番大きいのが前方後円墳の1号墳で、墳丘を残存しており、墳丘長は50mあり、墳丘周囲には2重周濠が巡らされており、周濠を含めた古墳全長は100m弱におよぶ。その他の4基は小円墳で、2号墳・3号墳の墳丘は減刑を留めていないが、4号墳・5号墳は墳丘を残存する。
 2号墳の周濠から、多数の埴輪・木製品が出土し、古墳時代後期の貴重な資産として、奈良県指定の有形文化財である。

石見遺跡展示場 9:03

 笹鉾山1号墳からさらに東に進み、石材店のある辻を左折し、北上すると、石見新池があり、池南東隅の畔に石見遺跡展示場がある。
 石見(玉子)遺跡は、昭和5年(1930年)の寺川堤防決壊の復旧工事中に発見された遺跡で、5世紀末から6世紀前半の直弧文様のある石見型楯、勾玉の首飾りをつけた椅子に腰掛けた男、顔に入墨をした男の埴輪などが発見され、この石見新池に埴輪等のレプリカを展示するスペースが設けられている。

唐古・鍵遺跡史跡公園の復元楼閣 9:18

 石見新池から東に細い路地を進んで行くと、R24に突き当たり、横断すると、唐古・鍵遺跡史跡公園に入る。
 青空に復元楼門と唐古池が映える。
 唐古・鍵遺跡は、幾重もの環濠に囲まれた弥生時代の集落遺跡で、広さは甲子園10個分の約42万uに及び、弥生時代前期から後期まで約700年もの長い間、途切れずに集落として存在し続けていたことなどが分かっている。
 また、大きな建物があったことを表す遺構や、土器をはじめとした多くの遺物が出土しており、特に、唐古・鍵遺跡の特徴のひとつとして、弥生時代を通じて全期間の遺物が出土する事であり、多くの出土物が国の重要文化財に指定されている。そして、一帯は、唐古・鍵遺跡として、国指定の史跡である。

鏡作神社鳥居 9:40

 史跡公園を後に、東へ戻る。R24と寺川を渡ると、田原本の古い町並みに入ってくる。この辺りは1年前の下ツ道歩きで歩いたところだ。その時はどんよりと曇っており、やがて雨に代わったが、今日は素晴らしい快晴だ。
 下ツ道を南に進み、鏡作神社へ。ご存知鏡作りの神社で、1年振りの参拝。

浄照寺本堂 9:59

 さらに南下し、田原本駅前へ。この辺りは寺社仏閣が多く、風情ある町並みが広がっている。
 本誓寺と浄照寺が並んで建っている。
 本誓寺と浄照寺は、「賤ヶ岳の七本槍」の一人、平野長泰を祖とする、田原本藩2代藩主平野長勝が、慶安4年(1651年)、平野家の菩提寺として、まず浄土宗本誓寺を招請建立し、南側に浄土真宗の寺院円城寺(淨照寺の前身)を建立したことに始まる。
 その後、円城寺と地域末寺8寺を加えて浄土真宗本願寺第13世門主良如上人に寄進したことで、住職は本願寺門主が務め、本願寺御坊として、72か寺もの末寺や配下を有した。
 大和には5箇所の御坊が存在し、今井の称念寺、御所の円照寺、高田の専立寺、畝傍の信光寺と併せて大和5箇所御坊と称せられた。
 浄照寺本堂は、一重入母屋造の本瓦葺で、文書記録から、慶安4年(1651年)の建造と推定され、奈良県指定の有形文化財である。

津島神社 10:02

 浄照寺からすぐ南の津島神社へ。
 津島神社の創建は、棟札の文字から天治二年(1125年)と推定される。神仏分離以前は祇園社と呼ばれ、現在も夏に盛大な祇園祭が催されることから、地元では「祇園さん」の愛称で親しまれている。
 現在、祭神は素戔鳴命、櫛名田姫命、誉田別命、天児屋根命などとなっているが、本来は牛頭天王を祭神とする田原本村の産土神だったと考えられる。
 江戸時代には、藩主平野家の尊崇をあつめ、毎年米1石5斗の寄進を受けた。明治2年(1869年)には、平野家の本貫地尾張国津島にあった津島社も祭神を牛頭天王とすることから、社名を津島神社と改めることとなった。

 神社すぐ横の田原本駅で探索終了〜 いつものように京橋へ向かい、昼呑みして帰りました。

参考タイム

11/3近鉄結崎駅 7:107:25 糸井神社 7:257:40 比賣久波神社 7:408:20 近鉄但馬駅 8:208:40 黒田大塚古墳 8:409:15 唐古・鍵遺跡史跡公園 9:209:55 近鉄田原本駅(本誓寺・浄照寺・津島神社)

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