首里城跡周辺散策

−沖縄の城(グスク)巡り第一弾! 琉球王朝の王城で、沖縄県内最大のグスク周辺を巡る−

   

山行概要

日 程
2017年12月13日(水)
天 気
曇り時々晴れ
メンバー
単独
コースタイム
首里城跡(城内散策70分)=0:05=玉陵=0:10=潮汲川=0:05=首里金城町の大アカギ=0:10=首里城跡=0:15=ゆいレール儀保駅【1:55】

記録文(写真はクリックで拡大)

 首里城前交差点からスタート。すぐに守禮門が現れる。

守禮門 16:17(帰路での撮影)

 守禮門は、牌楼型の門(中国の伝統的建築様式の門)で、日本城郭でいう首里城の大手門に値する。沖縄のシンボル的存在と言える。
 「守禮(しゅれい)」とは「礼節を守る」という意味で、門に掲げられている扁額(へんがく)には「守礼之邦(しゅれいのくに)」と書かれている。「琉球は礼節を重んずる国である」という意味である。
 第二尚氏王朝の時代、中国からの冊封使が琉球に来た際には、国王以下の高官らが守禮門まで出迎え三跪九叩頭の礼をとっていたという。

 1527〜55年(第二尚氏4代目尚清王(しょうせいおう)代)にはじめて建立され、昭和8年(1933年)に国宝に指定されたが沖縄戦で破壊された。現在の門は昭和33年(1958年)に再建され、昭和47年(1972年)には沖縄県指定有形文化財となった。
 今はすっかり見かけなくなった2000円札の図柄に採用された。

園比屋武御嶽石門 14:28

 園比屋武御嶽石門(そのひゃんうたきいしもん)は、琉球石灰岩で造られた建造物で、国王が外出するときに安全祈願をした礼拝所である。形は門になっているが人が通る門ではなく、神への「礼拝の門」ともいうべき場所である。
 門の上部に掛けられている扁額(へんがく)の内容から1519年(尚真王(しょうしんおう)代)に建てられたことが判明している。八重山の竹富島出身の西塘(にしとう)という役人が築造したものと伝えられる。
 琉球の石造建造物の代表的なものであり、昭和8年(1933年)に国宝に指定されたが沖縄戦で一部破壊され、昭和32年(1957年)に復元された。現在、国指定重要文化財であり、世界遺産に登録されている。

歓會門 14:29

 歓會門は、首里城の城郭内へ入る第一の正門で、「歓會(かんかい)」とは歓迎するという意味である。往時、首里城へは中国皇帝の使者「冊封使(さっぽうし)」が招かれたが、こうした人々を歓迎するという意味でこの名が付けられた。
 首里城は外郭と内郭により二重に囲まれているが、ここは外郭の最初の門で、別名「あまえ御門(あまえうじょう)」ともいう。「あまえ」とは琉球の古語で、「喜ばしいこと」を意味する。
 創建は1477〜1500年頃(尚真王代)で、沖縄戦で焼失したが、昭和49年(1974年)に復元された。

瑞泉門(右)と漏刻門 14:30

 「瑞泉(ずいせん)」とは「立派な、めでたい泉」という意味である。門の手前右側にある湧水が「龍樋(りゅうひ)」と呼ばれ、それにちなんでこのように名付けられた。ここは第二の門で、別名「ひかわ御門(うじょう)」ともいう。
 創建は1470年頃で沖縄戦で焼失したが、平成4年(1992年)に復元された。

漏刻門をくぐる 14:32

 漏刻門は、かつて門の櫓に水槽が設置されていて、そこから水が漏れる量で時間を計ったことから名付けられた。係の役人が太鼓を打ち鳴らし、それを聞いた別の役人が首里城内の西(いり)のアザナなどでも太鼓をたたいて城内外に時刻を知らせたという。
 また、この門は別名「かご居せ御門」とも言われる。王国時代、かごに乗って首里城にやってきた高官が国王に敬意を表し、この門でかごをおりたことからこの名が付けられた。

廣福門前からの眺望 14:34

 次の廣福門の前からは北側の眺望が広がる。
 廣福門をくぐると、「下之御庭(しちゃぬうなー)」と呼ばれる広場がある。しちゃぬうなーとは、沖縄の表現で「下の庭」という意味である。
 首里城正殿のある「御庭(うなー)」へ入る前の広場で、正殿前で行われる様々な儀式の控え場であり、正殿の建築工事の際には資材置場等として使用された。
 廣福門は入場券売り場として利用されており、この先、奉神門からは有料となる。有料ゾーンに進む前に、城郭の西側に寄ってみると、西のアザナと呼ばれる展望台がある。

西のアザナからの眺望 14:39

 西のアザナ(いりのあざな)は、標高約130mの城郭の西側に築かれた物見台で、ここからは那覇の町や那覇港の様子が一望できる。慶良間諸島も遠望できる。
 別名「島添(しまそえ)アザナ」ともいい、往時はここに旗を立て、鐘を備えて時刻を報じたという。

正殿を望む 14:46

 「京の内(きょうのうち)」という城内最大の信仰儀式の場を巡ってから、廣福門に戻る。
 画像は、廣福門へ戻る途中から望んだ正殿、奉神門(左)。

奉神門 14:47

 奉神門(ほうしんもん)は、「神をうやまう門」という意味で、首里城正殿のある「御庭(うなー)」へ入る最後の門である。1562年には石造欄干が完成したという記録があることから創建はそれ以前と言われている。建物は明治末期頃に撤去されたが、平成4年(1992年)に外観が復元され、公園管理のための施設として利用されている。
 別名「君誇御門(きみほこりうじょう)」ともいう。向かって左側(北側)は「納殿(なでん)」で薬類・茶・煙草等の出納を取り扱う部屋、右側(南側)は「君誇(きみほこり)」で城内の儀式のとき等に使われた。
 3つの門のうち中央は国王や中国からの冊封使等、限られた身分の高い人だけが通れる門である。それ以外の役人は両側の門から入城した。

御庭と正殿 14:55

 奉神門をくぐる。ここから有料ゾーンである。大きな広場「御庭(うなー)」が現れる。「御庭(うなー)」は首里城の中心部であり、正面が「正殿」、向かって右(南側)が「南殿・番所(なんでん・ばんどころ)」、左(北側)が「北殿(ほくでん)」である。
 年間を通じて様々な儀式が行われた広場であり、御庭には磚(せん)というタイル状の敷き瓦が敷かれているが、この色違いの列は、儀式の際に諸官が位の順に立ち並ぶ目印の役割をもっていた。
 中央の道を「浮道(うきみち)」といい、国王や中国皇帝の使者(冊封使)等、限られた人だけが通ることを許された。

 番所から南殿と、順に建物内を巡る。番所は、通常は首里城へ登城してきた人々の取次を行った所であり、南殿は日本風の儀式が行われた所である。
 国王が執務の合間に休息した奥書院、庭園を巡り、国王や王妃・王母のプライベートゾーンであった黄金御殿(くがにうどぅん)、そして棟続きの、国王とその家族の食事を準備した寄満(ゆいんち)を経て、いよいよ正殿へ。

正殿の御差床 15:06

 首里城の中心、正殿は、琉球王国最大の建造物である。
 木造の三階建で、一階は「下庫理(しちゃぐい)」と呼ばれ、主に国王自ら政治や儀式を執り行う場、二階は「大庫理(うふぐい)」と呼ばれ、国王と親族・女官らが儀式を行う場であった。三階は通気を目的とした屋根裏部屋である。
 創建年は、復元に先立って実施された発掘調査から14世紀末頃と見られている。その後ほぼ同位置で数度の焼失・再建を繰り返してきた。現在の建物は18世紀初めに再建され、沖縄戦で焼失するまで残っていた正殿をモデルに平成4年(1992年)に復元したものである。
 画像は御差床(うさすか)で、国王が座る玉座である。左右の柱には龍が描かれ、そのまわりには雲が配色されている。2階にも1階と同じ場所に御差床があるのは極めてめずらしいと言われ、特に2階の御差床は絢爛豪華な意匠となっている。

 最後は北殿(役人の執務室で、沖縄サミットの晩餐会の会場に利用された)を見て、首里城見学終了。いや〜見ごたえ十分でした。

円覚寺総門 15:21

 円覚寺は、第二尚氏の菩提寺として弘治7年(1494年)に第二尚氏王統の尚真王が鎌倉の円覚寺を模して建立した。開基は京都南禅寺から初めて琉球に臨済宗を伝えた芥隠承琥。第二尚氏の支援を受けて繁栄し、寺前にある円鑑池では、中国からの冊封使を招いて宴が開かれるなど、琉球王朝史の中で極めて重要な位置を占めていたとされる。
 仏殿、三門、方丈などの伽藍は昭和8年(1933年)に国宝に指定されたが、第二次世界大戦で放生橋を残して全て焼失した。
 跡地は戦後、琉球大学の関連施設として使用され、基壇や石畳などの遺構は破壊もしくは地下に埋め込まれてしまったが、昭和43年(1968年)に総門が復元され、放生池の修復が行われた。

円鑑池と弁財天堂、天女橋 15:22

 円覚寺の前に「円鑑池(えんかんち)」と呼ばれる池があり、池の中央に「弁財天堂(べざいてんどう)」が建つ。
 円鑑池は、1502年に造られた人工池で、首里城や円覚寺からの湧水・雨水が集まる仕組みになっている。また、ここからあふれた水が隣の龍潭(りゅうたん)へ流れている。沖縄戦で破壊されたが、昭和43年(1968年)に修復された。池の水深は3メートルほどである。
 弁財天堂は、航海安全を司る水の女神・弁財天を祀っていた。円鑑池同様、沖縄戦で破壊されたが、昭和43年に復元された。
  堂にわたる小橋は天女橋と呼ばれ、中国南部に多い駝背橋(だはいきょう:駱駝の背中に似た形状の橋)の特徴を持ち、石の欄干には蓮の彫刻等が施されている。

龍潭 15:29

 すぐ隣の龍潭へ。
 龍潭は1427年に造られた人工の池である。かつてこの付近に建てられていた沖縄最古の碑文「安国山樹華木記(あんこくざんじゅかぼくき)」によれば、国相懐機が中国におもむき、造園技術を学んでこれを造ったとされている。
 ここでは中国皇帝の使者・冊封使を歓待する船遊びの宴も行われた。
 首里城周辺の散策を終え、玉陵(たまうどぅん)へ歩む。

玉陵外郭全景 15:44

 玉陵は、琉球王国、第二尚氏王統の歴代国王が葬られている陵墓。そもそもは第3代尚真王(在位1477−1526年)が父、尚円王を葬るために建築したものである。世界遺産の一つで沖縄県最大の破風墓である。

外郭の門から内郭を覗き見る 15:46

 内郭には中室、東室、西室の3つの建築物がある。中室は葬儀の後、当時の琉球の葬制に基づき遺骸が骨になるまで放置した場で、数年後に骨を取り出して洗骨し、骨壺に収めた後、王及びその妃の骨は東室に納められ、他の王族は西室に納められた。
 第二次世界大戦末期には、日本軍総司令部に近かった玉陵は首里城と共に集中砲撃の巻き添えに会い、東室・西室が破壊されるなど大きな被害を受けた。現在見られる大部分は第二次世界大戦後に復元されたものである。
 平成12年(2000年)に「琉球王国のグスク及び関連遺産群」として世界遺産に登録された他、全体が国の史跡であり、かつ、「玉陵」5棟(墓室3棟、石牆2棟)として、国の重要文化財に登録されている。

首里金城町石畳道 15:56

 玉陵から、首里城前の交差点に戻り、南東へ首里城の南側を回り込むように進む。
 右手に斜面を下る小道があり、「金城町石畳道」の標識が立つ。急な細道を一気に下ると、首里金城町石畳道である。
 この石畳道は、首里城から国場川の真玉橋に至る総延長10キロの官道であった真珠道(まだまみち)の一部で、琉球王国尚真王の治世である1522年頃に建造が始まったとされる。
 第二次世界大戦の沖縄戦で真珠道の大半は破壊され、コンクリートで舗装されていたが、昭和58年(1983年)に歴史的地区環境整備事業によって再び石畳に整備された。
 沖縄県指定文化財(史跡・名勝)であるほか、日本の道100選にも選定されている。
 坂道を下り切った辺りを右折すると、潮汲川(うすくがー)がある。

潮汲川 16:00

 潮汲川は、首里金城町の斜面の中腹からさらに西に下った場所にある共同井戸で、創建年代は不明ですが、伝承によると、むかしはこの井戸の近くまで入江になっていたという言い伝えがあり、潮まじりの水がでる井戸だったので、「うすくみがー」と呼ばれ、それが訛って「うすくがー」になったといわれている。
 この井戸は、水量も豊富で昔から地域住民の生活用水として利用され、また溢れ出る水は斜面の裾に広がる水芋田の灌漑用水としても使われた。
 現在も水に対する民間信仰の拝所となっており、長い歴史の中で地域の人々との深い関わりがあることを物語っている。

首里金城町の大アカギ 16:05

 潮汲川から少し石畳道を登り返し、右折。東へ少し細道を進むと、鬱蒼とした森に出る。
 この辺りは戦火から逃れた地で、昔のままの森の面影を残しており、内金城嶽(うちかなぐすくたき)という信仰の場がある。
 内金城嶽の境内には、拝所(うがんじゅ)と呼ばれる石積みの門で祈願する場所が東西2箇所あり、石門の奥には御神木で、樹高20mを超える大アカギが東西合わせて6本生えている。
 人里近くに大きなアカギが群生しているのはこの地だけで、「首里金城町の大アカギ」として国の天然記念物に指定されている。
 パワースポットの典型的な地で、一人、樹皮に手を当てる私… 何かしらパワーを貰える気がする。
 首里城へ登り返し、住宅街の中をのんびり歩いて、儀保駅に出た。

参考タイム

12/13首里城跡 15:3015:35 玉陵 15:5016:00 潮汲川 16:0016:05 首里金城町の大アカギ 16:0516:15 首里城跡 16:2016:35 ゆいレール儀保駅

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