−職場の仲間と高遠城跡を軽ハイク メインは宴会(笑)−
山行概要
2021年11月13日(土) | |
耳我山系 | |
晴れ後曇り | |
AM君、NKさん、SNさん、きよみ、私 | |
近鉄壺阪山駅=0:20=植村邸=1:00=猿石=0:30=高取城本丸跡=0:35=壷阪寺=0:55=近鉄壺阪山駅【3:20】 |
記録文(写真はクリックで拡大)
職場の連中3人に、大学サークルの後輩きよみが加わるというカオスな山行を企画する。
昼前後には下山し、呑みメインの山旅ということで、お手軽な高取城跡をチョイス。
AM君が最寄り駅で反対側のホームで電車を待つという凡ミスにより、予定より30分遅れて、壺阪山駅を出発。
駅から東へ進み、R169を渡って二つ目の辻で右折し、「土佐街道」と呼ばれる古い町並みを南へ進んで行く。
「土佐街道」は、高取藩2万5千石の城下町として栄えた高取町のメインストリートで、当時は500軒余りの商家が軒を連ねたといい、今も低い軒先や連子窓のある古い家並みが続く。
「石川医院」の門は、新御殿(藩主下屋敷)の表門だったらしい。
「土佐街道」の名の由来は、飛鳥時代初期にまで遡り、大和朝廷の都造りに駆り出された土佐の人々が帰郷できず、この地に住み着いたことが起源とされている。
さらに進むと、なまこ壁が特徴的な旧家が目に入る。
これが、現在も旧藩主・植村家の住居として用いられている屋敷で、元々は、旧高取藩の筆頭家老屋敷であった。
この長屋門は、文政9年(1826年)の建築で、間口39.1m、奥行き4m、むね高5mの規模を誇る一重入母屋瓦葺き造り。門内の東西にはそれぞれ4室の部屋があり、江戸時代には高取藩に仕える使用人が暮らしていたという。
近代武家屋敷表門の遺構を残す貴重な建造物であることから、奈良県の重要文化財に指定されている。
町並みを抜けると、正面に高取山が立ちはだかる。ホンマに良い天気。
高取川沿いを遡り、砂防公園が対岸にある辺りから山中へ。植林帯の中を登って行く。
徐々に登りが急になり、「七曲り」と呼ばれる、九十九折の急登となる。
山が久しぶりのNKさんはしんどそうだ。
さらに登ると、明日香の栢森に下るルートが分かれるポイントに猿石が立っている。
制作は飛鳥時代の斉明朝頃(7世紀)と推定され、高取城築城の際、石垣に転用するのに飛鳥から運ばれたという。明日香桧隈の吉備姫王墓の域内にある石像物と同類のものである。
猿石を過ぎると、石垣が現れ始め、城内に入ったことを知る。
この千早門跡をはじめ、枡形の門跡が次々と現れ、強固な防御網が偲ばれる。
千早門からが、城の主郭部分となり、門を過ぎた先の平坦部で、壷阪寺に降りるルートが分かれる。
そして、大手門跡へ。ここも立派な枡形が残る。本丸へは、必ずこの門をくぐらねばならない。
大手門を通過すると、二ノ丸跡。正面に太鼓櫓の石垣が見える。
太鼓櫓跡の横を通過し、本丸に向かう。
本丸の大きさは東西に75m×南北60mで、約8mの石垣に囲まれている。南西には3重3階の「小天守」があり、東側には2重3階の「硝煙御櫓」、虎口付近には「具足櫓」が建ち、その反対側には平櫓の「鉛御櫓」がある。このように本丸は、1基の天守と1基の小天守、3基の櫓が多門櫓で連結された連立式天守であった。
いよいよ本丸虎口から本丸内へ。何だかんだで13年振りです。
本丸では南側が開けており、大峰が見渡せた。
高取城は、南北朝時代、南朝方の越智邦澄が元弘2年(1332年)に築城したのが始まりと伝えられている。
その後、信長の時代にいったん廃城となったが、秀吉の時代に、大和国が豊臣秀長の所領となると、秀長の重臣の脇坂安治、そして、後に同じく重臣の本多利久に与えられ、利久は、大規模改修を行い、本丸には大小天守、二の丸には大名屋敷が造営され、城内には三重櫓が17基建ち並ぶなど、壮大な山城を構築した。
その後、 利久の子俊政は、秀吉の直参となったが、秀吉没後の混乱期に、俊政は徳川家康に付き、高取藩2万5千石を与えられた。
俊政の子の政武は、嗣子なく没したため、本多家は取り潰しとなり、その後、2代の城番を経て、寛永17年(1640年)、旗本の植村家政が新たに大名に取り立てられ、以後、明治維新まで植村氏が14代にわたって城主となった。
植村藩政時代も城の改修は継続して行われ、最終的には3重の天守と小天守をはじめ、22基の櫓、5基の多門櫓、33棟の門、2900mの土塀、3600mの石垣、9の橋梁、5の堀切を擁する巨大山城であった。
明治維新で廃城となり、入札により建造物の大半が近隣の寺院などに売却もしくは取り壊された。
帰路は壷阪寺方面へ一気に下っていくと、巨大な境内を見下ろすようになり、そして壷阪寺に到着。
西国三十三箇所第6番札所の壷阪寺は、伝承によると大宝3年(703年)に元興寺の弁基上人により開かれたとされる。後に元正天皇の祈願寺となった。
平安時代になると、京都の清水寺が北法華寺と呼ばれたのに対し、当寺は南法華寺と呼ばれ、長谷寺とともに古くから観音霊場として栄えた。
公家達の参拝も盛んであり、清少納言の「枕草子」には「寺は壺坂、笠置、法輪…」と霊験あらたかな寺の筆頭に挙げられている。
往時は巨大伽藍を誇ったが、嘉保3年(1096年)の火災で灰燼に帰した。その後、復興され、江戸時代には歴代高取藩主の庇護を受け栄えた。
本尊の十一面千手観世音菩薩は眼病封じの観音様として親しまれている。
この三重塔は、明応6年(1497年)の再建で、国指定の重要文化財である。
参拝後、谷沿いの旧参道をしばらく下って、車道に合流し、以降、古い町並みを抜けると、札ノ辻で土佐街道に合流し、壺阪山駅に戻った。
「粉もん屋八 橿原神宮前駅店」さんでフィーバー! 14:24
さぁ、メインの呑み開始(笑) 橿原神宮前駅構内にある「粉もん屋八 橿原神宮前駅店」に飛び込み、呑み食べまくる。
私は、ハイボール20杯超えで、意識が…
意識混濁のまま、駅近の人気店、「麺屋いちびり」さんで〆!
私はつけ麺にゆず三つ葉をトッピング!
私はほぼ意識不明のまま、近鉄電車で運ばれました… めっちゃ楽しかった。また行きましょう!
参考タイム
11/13 | 近鉄壺阪山駅 8:40 ⇒ 9:00 植村邸 9:00 ⇒ 10:00 猿岩 10:00 ⇒ 10:30 高取城本丸跡 11:10 ⇒ 11:45 壷阪寺 12:15 ⇒ 13:10 近鉄壺阪山駅 |
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