−歴史のロマン溢れる河内飛鳥を久しぶりに再訪−
山行概要
2022年6月4日(土) | |
河内飛鳥 | |
晴れ | |
単独 | |
近鉄上ノ太子駅=0:10=観音塚古墳=0:10=飛鳥戸神社=0:20=壺井八幡宮=0:10=源氏三代の墓=0:10=泥掛地蔵=0:15=敏達天皇陵=0:20=西方院・叡福寺=0:30=近鉄上ノ太子駅【2:05】 |
記録文(写真はクリックで拡大)
6月になったが、あまり気温も上がらない予報だったので、平地ハイクを企む。久しぶりに河内飛鳥を巡ることに。
近鉄上ノ太子駅に8時前に到着。まずは北の山手に進む。
溜め池の前を通り、目の前にある小山を登る。これが観音塚古墳である。
登って行くと、石室が確認できる。
観音塚古墳は、大きさが約12mの円墳か方墳と推定され、石室の構造などから古墳時代終末期の7世紀中頃に築かれたと考えられている。
古墳からは、大和葛城山と金剛山が一望だ。
山を下り、駅方向へ戻る。
途中に飛鳥戸(あすかべ)神社が鎮座しているので立ち寄る。4年前に竹内街道をやった際にも参拝したお宮だ。
この辺りは、5世紀に人質として献上され渡来した百済王族・昆伎王(こんきおう)の子孫である飛鳥戸造(あすかべのみやつこ)氏族の居住地であり、飛鳥戸神社は飛鳥戸造の祖神として昆伎王が祀られていたものと考えられているが、現在の御祭神は素盞嗚命である。
明治41年(1908年)に近隣の壺井八幡宮に合祀されたが、昭和27年(1952年)に分祀され、旧社地の近くに再建された。
飛鳥戸神社から細い路地を近鉄線方向へ歩いていくと、竹内街道と交差した。今日はそのまま直進し、踏切を渡ってから、川も渡り、南阪奈道羽曳野東ICへの進入路も横断し、南西方面へゆるやかに登っていく。
グラウンドの横を通過した辺りから、ゆるやかに下って行くと、壺井八幡宮の前に出る。
鳥居をくぐった先の左手に「壺井水」という井戸がある。
天喜5年(1057年)、前九年の役の折、大旱魃で飲料水に困った源頼義は、岸壁を穿ち、清水を湧き出させて軍の士気を高めたという。平定後、河内に凱旋する際、この清水を壺に入れて持ち帰った頼義は、井戸を掘って壺を底に埋めたのだという。
石段を登り、壺井八幡宮の境内へ。社殿の前に大クスが生えている。
樹高24m、幹周り5.8mの巨木で、大阪府指定の天然記念物である。
壺井八幡宮は、康平7年(1064年)5月15日、前九年の役に勝利して凱旋した源頼義が、河内源氏の氏寺・通法寺の北側で、現在地である河内国香呂峰(こうろほう)の私邸の東側に社殿を造営し、河内源氏の氏神である石清水八幡宮を勧請したのが当社の始まりである。この時、地名を香呂峰から壺井と改め、壺井八幡宮を武家源氏棟梁の河内源氏の総氏神とした。
頼義の5世孫である源頼朝が鎌倉幕府を開いた後は、河内源氏の総氏神は壺井八幡宮から鶴岡八幡宮に移り、壺井八幡宮は河内源氏の祖廟にして当地に土着した河内源氏である石川源氏の氏神となった。
現在の社殿は、元禄14年(1701年)、徳川綱吉の命により柳沢吉保が再建したものである。境内全体が、大阪府の史跡に指定されている。
壺井八幡宮の西隣には、摂社の壺井権現社が建つ。天仁2年(1109年)、源義家の六男源義時が創建し、河内源氏の崇廟としたもので、京都の六孫王神社や摂津国多田神社と並ぶ源氏三神社の一つである。
現在の社殿は、壺井八幡宮と同様、元禄14年(1701年)、徳川綱吉の命により柳沢吉保が再建した。
壺井八幡宮から南に延びる路地を進み、白いガードレールのある辻を左折すると、た通法寺跡があり、その中に源頼義の墓がある。
源頼義は、河内源治の祖、頼信の嫡男で、前九年の役で活躍するなど、河内源治の棟梁としての力量を示した。
遺言により通法寺の本堂下に葬られた。
通法寺は、長久4年(1043年)、源頼義が河内源氏の菩提寺として建立した。頼義が猟の途中、山中で拾った仏像を本尊として安置したのが始まりという。その後、南北朝時代に兵火にかかり焼失。元禄13年(1700年)、徳川幕府により再建されたが、明治初期に廃寺になった。現在も鐘楼や、山門などが残っている。
通法寺跡の南の丘を登ると、源義家墓がある。
ご存じ「八幡太郎義家」で源頼義の嫡男。前九年の役で父を助けて安倍氏を討ち、のち、陸奥守兼鎮守府将軍となり、後三年の役を鎮定。東国における源氏勢力の基盤をつくったスーパースターですな。
義家の墓から南に山道を進むと、源頼信墓がある。
源頼信は、摂津多田源氏の祖、源満仲の三男で、河内国司に任ぜられ、壷井の地に屋敷を構えたことから、河内源治の祖と呼ばれている。
西へ下り、路地に合流すると左折し、南へ進む。松本橋を渡ると左折し、少し川沿いに進み、最初の辻を右折し、南へ進むと、車道に出合い横断する。渡った先に泥掛地蔵がある。
泥掛地蔵の名前の由来は、地蔵堂の南にある池の泥を地蔵像に塗り付けて祈願すると願いが叶えられるので、名付けられたという。
泥掛地蔵から南へ進み、府道32号線に突き当たる手前の辻を左折し、時計回りに上り下りしながら進むと、府道32号線を高架で渡り、そのまま南へ進んで行くと、敏達天皇陵が現れる。
静かな森に覆われ、つい先程まで街中を歩いていたとは思えない静けさが漂っている。
第30代敏達天皇は、572年に即位され、585年の死後、母君の石姫皇后の墓である磯長の陵に葬られたと「日本書紀」に記載されている。
敏達天皇陵は全長約93m。磯長谷では唯一の前方後円墳で、周囲には空濠を巡らせています。内部については調査されておらず不明。
天皇陵周辺からは埴輪が出土しており、古墳時代の後期前半に築造されたと考えられている。
天皇陵入口から東に下り、車道に出合い左折して北に向かうと。上宮学園に出るので、学園の東端を進む山道を北に進む。
集落に入り、南林寺の前を過ぎて細い路地を進んで行くと、西方院が現れる。
西方院は、「河内名所図会」によれば、推古天皇30年(622年)、聖徳太子が死去した後に出家した三人の侍女、善信尼(蘇我馬子の娘)、禅蔵尼(小野妹子の娘)、恵善尼(物部守屋の娘)により、聖徳太子廟がある叡福寺の門前にその塔頭として法楽寺の寺号で創建されたといい、聖徳太子作の阿弥陀如来像を本尊として遺髪を納めたと伝わる。
このため、日本最古の尼寺であると言われているが、「日本書紀」では、善信尼は司馬達等の娘、恵善尼は錦織壺の娘で、出家したのは敏達天皇13年(584年)で、飛鳥の豊浦寺を創建したと記載されており、日本最古の尼寺は同寺ということになる。
江戸時代に入るまでに衰退していたが、寛永16年(1639年)、蓮誉寿正尼が中興し、名称を西方院と改めた。本堂もこの時の再建である。
西方院から北に下る。目の前に叡福寺の境内が一望だ。叡福寺は18年振りの参拝だ。
寺伝によれば、聖徳太子は生前、推古天皇28年(620年)にこの地を墓所と定めたという。翌年、実母の穴穂部間人皇女(あなほべのはしひとのひめみこ)が没するとこの地に埋葬され、さらに翌年には、相次いで没した聖徳太子と妃の膳部菩岐々美郎女(かしわでの ほききみのいらつめ)が追葬されたと伝わる。
太子の没後、伯母の推古天皇が墓守りの住む堂を建てたのが叡福寺の始まりとされている。その後、神亀元年(724年)、聖武天皇の発願で東院・西院の2つの伽藍を整備し、西院を叡福寺と称したというが、史実かどうか定かではない。
当寺は、織田信長による兵火で大きな被害を受け、古代の建物は残っていない。金堂は享保17年(1732年)の再建で、大阪府指定の有形文化財である。
宝塔(多宝塔)は、承応元年(1652年)の再建。本尊は東面に釈迦・文殊・普賢の三尊像、西面に金剛界の大日如来を安置し、4本の柱には四天王の像が描かれている。
木割りは太目で近世では正統派に属する塔であり、国指定の重要文化財である。
境内北端には、聖徳太子御廟が祀られている。
聖徳太子御廟は、「叡福寺北古墳」と呼ばれ、宮内庁により「磯長墓」として、聖徳太子(厩戸皇子)の墓に治定されている。考古学的にも厩戸皇子の墓の可能性が高い古墳として知られる。
墳形は楕円形で、直径は南北約43m、東西約53mで、墳丘は3段築成。横穴式の石室を有し、南方向に開口する。玄室内部には棺を据えた棺台3基が残り、太子・穴穂部間人皇女・膳部菩岐々美郎女ら3人の合葬墓の可能性が高いと推定されている。
後は、古い集落を縫うように進み、上ノ太子駅まで戻った。
そして、京橋で定番の昼呑み。佳き休日でした。
参考タイム
6/4 | 近鉄上ノ太子駅 7:55 ⇒ 8:05 観音塚古墳 8:05 ⇒ 8:15 飛鳥戸神社 8:15 ⇒ 8:35 壺井八幡宮 8:40 ⇒ 8:50 源氏三代の墓 9:00 ⇒ 9:10 泥掛地蔵 9:10 ⇒ 9:25 敏達天皇陵 9:25 ⇒ 9:45 西方院・叡福寺 9:50 ⇒ 10:20 近鉄上ノ太子駅 |
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