−超ド快晴に恵まれた元旦東海道初歩き! 富士はいつも横にいた…−
山行概要
2024年1月1日(祝・月) | |
東海道 | |
快晴 | |
単独 | |
JR原駅=1:30=六王子神社(JR東田子の浦駅前)=1:00=JR吉原駅北口=0:40=岳南鉄道吉原本町駅=1:00=富士市本町=0:20=JR柚木駅(かっぱ寿司富士柚木店)=0:45=間宿岩淵小休本陣=1:10=蒲原宿西本陣跡=0:45=JR蒲原駅=0:20=由比宿本陣跡=0:35=JR由比駅【8:05】 |
記録文(写真はクリックで拡大)
昨晩は、パチスロで負け、ホテルの部屋で呑んでからフテ寝したので、あっけなく年が明けた(笑)
静岡駅前のコンビニで朝食を調達してから、5時1分発の沼津行き始発に乗り込む。
元旦のせいか、けっこうな乗車率でアテが外れたが、構わず、ロングシートの車内でサンドウィッチを頬張るという新年早々の傍若無人振りを発揮(笑)
原駅には5時48分着。駅のトイレで歯磨き&身繕いをし、夜も明けきらぬ中、いざ出撃!
東海道筋に出る手前の路地の中に、ひっそりと明徳稲荷が佇んでいたので、ここで2024年の初詣とする。
ほんとに小さなお社だが、天正11年(1583年)創建の古社で、原宿の鎮守であった。
今では県道163号線になっている街道筋に出るが、昨日歩けてなかった、原宿内を少し東へ逆走する。「原交番東」交差点の北西側に原の浅間神社が鎮座しており、寄り道。
原の浅間神社は、武田家が滅亡後、原に流れ着いた、旧臣の植松出雲守李重という者が、慶長14年(1609年)に創建し、植松出雲守の弟の宗吾掃部が初代の神職を務めた。その後も李重の子孫が代々跡を継ぎ、植松本家は、現在も当宮の向かいに居住されているとのこと。
参道の西側には、原宿の高札場が立っていたとのこと。
「原交番東」南西の問屋場跡や、渡邉本陣跡を確認しながら、原宿内を西に進んで行く。
原宿は、日本橋から13次目の宿場町で、天保14年(1843年)の「東海道宿村大概帳」では、宿の家数398軒、人口1939人とあり、宿の規模としては比較的小さな宿であった。
しかし、原宿は、街道一の富士山の眺めを多くの歌人・絵師・文人等が作品に残し、又白隠国師の生誕地で、彼が修業、再興した松蔭寺や原宿中心地にはシーボルトはじめ、多くの文人墨客・公卿・大名・後には皇族・政治家等が訪れた。また、当時街道一の庭園・植物園といわれた植松家の「帯笑園」もあり、文化の発信地ともなっていた場所である。
「原駅入口」交差点の100mほど西が原宿の西見附跡で、ここで宿場町を離れ、さらに西へ進んで行く。徐々に明るくなり、富士の姿がはっきりと拝めるようになってきた。
一本松という集落に入ってきた。一里塚跡を南側に見ながら、さらに西進すると、一本松の浅間神社が街道北側に鎮座する。
一本松の浅間神社は、慶安3年(1650年)の創建で、明治八年二月、村社に列せられる。
境内西側の末社には、三扉の神があり、櫛摩知命、大己貴命、少名彦名命が祀られ、また、境内入口の左側には、素戔嗚尊を祀る天王社もあることから、浅間神社は、三社宮とも呼ばれ、地域からの崇敬を集め、今日に至っている。
一本松の浅間神社から、300mほど街道を西に進んだ南側に大通寺が建つ。この辺りが一本松集落の西端に当たる。
大通寺は、幕末に寺子屋が開かれ、明治6年(1873年)に初学舎と命名、現在の原小学校の前身となった。スルガ銀行初代頭取の岡野喜太郎氏もここで学び、境内には碑が建てられていた。
火災により建造物・資料は焼失しており、現在の本堂は平成7年(1995年)の再建。
大通寺から、さらに西へ進んで行くと、桃里集落に入り、集落の一角、街道北側に浅間愛鷹神社が鎮座する。
浅間愛鷹神社は、延享2年(1745年)の創建で、助兵衛新田の鎮守。ちなみに、助兵衛新田とは、元和元年(1615年)に遠州から移住してきた鈴木助兵衛が新田開発を行ったことから名付けられた地名だが、あまりに聞こえが悪い(笑)ので、明治41年(1908年)に桃里に改称されたとのこと。それにしても、300年近く助兵衛を称していたとは(笑)…
鳥居の扁額には、浅間愛鷹神社の名の他に金山神社も併記されており、社殿の形状から、沼津宿で参拝した丸子神社・浅間神社と同様の一扉二社と思われる。
ずっと西へ進む。街道北側には建物が建ち並び、なかなか富士の姿を拝めないのだが、時折、耕作地があったりして、視界が開ける時がある。
先ほどは黎明の空の元に佇んでいた富士が、徐々に赤く色付いてきた。正月ムード満点です。
富士市に入ってきた。富士がさらにデカくなってきた。
この角度では、宝永火口の様子がはっきり分かる。
県道380号線に合流し、柏原新田の集落に入る。JR東田子の浦駅前に六王子神社が鎮座する。
六王子神社には、人身御供の悲しい伝承が残る。
昔、沼川と和田川と潤井川とが合流し深い渕になっている所を「三股」と呼んでおり、この渕には龍が棲んでいて、毎年お祭りをし、少女を生贄として捧げるしきたりがあった。今から400年程前、関東の巫女7人が京へ向かう途中、このいけにえのクジを引き、一番若い「おあじ」が引き当ててしまう。仲間の6人は国元へ引き返すことにしたが、この柏原の地に来た時、悲しみのあまり浮島沼へ身をなげてしまったという。村人が6人の亡骸を一箇所に弔ったのがこの六王子神社だといわれている。
おあじは、鈴川の阿字神社(六王子神社から西へ約1km)に祀られている。
この辺り、すぐ南は駿河湾で、歌枕の「田子の浦」の東端とされているので、寄り道。
伊豆半島の背後に朝日が眩しい…
街道に戻る。原宿と吉原宿との間の宿であった「柏原本陣跡」の碑を過ぎると、北側に立派な仁王門を擁する立圓寺がある。
立圓寺は、万治3年(1660年)の創建で、明治初期及び昭和初期の大火で堂宇等は焼失したが、昭和56年(1981年)の日蓮700遠忌報恩事業として、本堂、仁王門が再建された。
この地は、富士の眺望が東海道で最も素晴らし いといわれ、参勤交代の行列が、休憩がてら富士山の眺望を楽しんでいたと伝えられており、文化5年(1808年)5月、尾張藩の典医であった柴田景浩という人物が「望獄の碑」を建立し、現在も残っている。
この他、境内には昭和54年(1979年)、すぐ南の柏原海岸に台風で打ち上げられた、ジャカルタの貨物船ゲラテック号遭難者の慰霊碑もある。
立圓寺から500mほど西に街道を進むと、広沼橋で川を渡るが、傍らに「一級河川 昭和放水路」の標識がある。
昭和放水路は、湛水被害の防除と優良農地造成を目的として、昭和18年(1943年)に整備された、延長約1kmの水路。
この水路の上流にある富士市東部の浮島沼一帯は、愛鷹山麓の川からの水が流れ込み、沼川を通って田子の浦港に流れ出るが、標高差がないため、排水が悪く、たびたび湛水被害が起きていた。
このため、原宿の増田平四郎という人物が、浮島沼の大規模な干拓を計画し、現在の昭和放水路と同じ場所に水干(すいほし)といわれる放水路を完成させていたが、放水路は高波によって破壊されてしまい、その後に昭和放水路が整備された。
柏原保育園の少し西で、また視界が開けた。
愛鷹連峰も雄大だ。北から南へ全山縦走したのは、もう28年も前のことになってしまった…
檜新田という集落に入ってきた。街道北側にここにも愛鷹神社が鎮座している。
檜新田は、浮島沼対岸の船津新田から移住した人々が開拓した地であり、愛鷹神社はその鎮守として寛文11年(1671年)に創建されたと伝わる。
檜新田の西端で、左に分かれる県道170号線に入る。道幅が狭まり、街道の面影が少し出てくる。静かに歩ける箇所だ。
今井集落に入ってきた。次の吉原宿は、かつてはこの辺りにあったが、寛永16年(1639年)の大津波で壊滅的な被害を受けたため、中吉原に宿場ごと移転したとのこと。このため、この辺りは「元吉原」と呼ばれており、その名を冠した小学校もある。
今井集落の中ほどに立派な寺院が街道南側にあるので立ち寄る。
妙法寺は、寛永4年(1627年)の創建だが、元々は、山伏たちが寺裏の田子の浦海岸で水垢離を取り、海抜0mから富士山に登った、 その禊ぎの道場が起源である。地元では寺名でなく、「毘沙門さん」と呼ばれることが多い。
妙法寺本殿(左奥)と龍神香炉堂(右手前)、錬成道場(右奥) 8:07
境内の中央には、鮮やかな龍の装飾が施された龍神香炉堂があり、香炉の煙は浴びると体の悪いところが良くなるとされ、魔や邪気などを払う効果もあると言われている。
旧正月の7〜9日の3日間は、「毘沙門天王」が娑婆に下られて親しく人々の願い事を聞いて下さるといわれ、今では「毘沙門天大祭」として数十万人の人々で賑わう。このお祭りには全国からダルマ屋が店を出すことでも有名で、高崎、調布の深大寺(じんだいじ)と並ぶ、日本三大「ダルマ市」としても知られている。
この大祭に出店する露店の連なりは1kmを超え、その賑わいは「東海一の高市(たかまち)」と表されている。
今井集落を抜け、鈴川踏切でJR東海道線を渡り、北西に少し進むと、JR吉原駅の北口。
その先で、沼川を渡る。ほぼ河口に近く、田子の浦港がすぐそこなので、漁船も見える。
周囲は完全に市街地になってきた。R1を横断し、北に方向を変える。
この辺り、富士がほぼ真北になり、距離も近くなり、相当デカい。
街道左手(西側)に左富士神社が鎮座する。
左富士神社の創建は、寛政8年(1796年)で、もともとの社名は、「悪王子社」で、後に「悪王子神社」と称していたが、明治41年(1908年)に現在の「左富士神社」に改称した。
当社は、霊験高く祈願成就するといわれ、特に戦争勃発時には出征兵士の武運長久を祈願する人々が絶えなかったといわれている。また、太平洋戦争では地元からの出征兵士は50人ほどいたらしいが、戦死した兵士は僅かだったとのこと。
左富士神社から150mほど街道を進んだ先に「名勝 左富士」の碑がある。
吉原宿は、寛永16年(1639年)、延宝8年(1680年)の2度にわたって、高潮による壊滅的な被害に遭い、その都度内陸部に移転した関係で、この辺りは街道筋が北に湾曲しており、その結果、この辺りは富士が街道左側に見える。東海道を江戸から京に上る時は、富士は常に進行右側に見えるので、左側に見えるのはとても珍しく、他には茅ヶ崎の「南湖の左富士」しかな無いため、「左富士」といわれ、街道の名勝となっている。
歌川広重の「東海道五拾三次之内 吉原宿」にもこの構図が採用されている。
さらに北へ進んで行くと、三叉路があり、左手へ。すぐに和田川に架かる平家越橋があり、東詰に「平家越」の碑がある。
この地は、治承4年(1180年)、富士川の合戦で、源氏軍に対峙していた平家軍が、水鳥が一斉に河沼を飛び立つ音を源氏軍の夜襲と勘違いして、一太刀も交えず撤退したという伝説が残っており、地名の由来となった。
平家越で、東海道は再び西に進路を変え、市街地を進んで行く。「吉原宿の東木戸跡」の標柱を通過し、14次目の吉原宿に入った。岳南鉄道の踏切を渡る。すぐ横が吉原本町駅だ。
吉原宿は、天保14年(1843年)の「東海道宿村大概帳」では、本陣2軒、脇本陣3軒、旅籠屋は60軒あったという。
原宿から蒲原宿にかけての東海道では、宿場や茶店で名物の白酒が売られ、旅人の疲れを癒した。特に吉原宿と蒲原宿の間にある立場・本市場の白酒は人気があったという。白酒とは、焼酎またはみりんに蒸した糯米、麹を加えて熟成させて、これをすりつぶし醸造するもので、アルコール分は8〜9%。山川酒ともいわれ、甘口で一般の清酒よりアルコール分が少なく、雛祭りのお酒として江戸時代に盛んに飲まれるようになった。
元旦でシャッター通りと化している吉原商店街のアーケードを通過。この辺りが吉原宿の中心部で、本陣跡や脇本陣跡が点在しているようだが、標柱等を発見できず素通りする。
「吉原宿」の木製標柱が立っている辻で左折し、さらに右折する枡形を通過。西に進んで行くと、小潤井川を志軒橋で渡る手前に「吉原宿西木戸跡」の標柱があり、吉原宿から出た。
R139に合流し、南に進み始めたのも束の間、「錦町」交差点で、右斜め方面に延びる旧街道筋に入り、しばらく南西に進む。
街道の左手に青嶋八幡宮神社が鎮座している。
青嶋八幡宮神社は、別名「磔八幡」とも呼ばれており、その名の由来は、延宝9年(1682年)、この地に検地に入った幕府の役人が、ことのほか厳しく、少しでも多くの米を吸い上げようとしたところ、当時弱冠29歳の青年名主、川口市郎兵衛は、高潮の被害が重なり、激しく疲弊していた農民を救うため、役人を一歩も村に入れようとしなかった。結果、厳しい検地は免れたものの、役人に盾ついた者として市郎兵衛は江戸送りになり、はりつけの極刑に処されたという。
命を懸けて村を救った市郎兵衛を慰めるため、現在まで祀られている。
青嶋八幡宮神社から、さらに南西に進んで行くと、「高島」交差点で幅広の県道396号線に突き当たり、合流右折する。
100mほど西に進んだだけで、また右折し、北東に斜めに伸びる街路へ。これが街道筋である。
すぐに左折し、再び西進すると、富安橋が現れ、潤井(うるい)川を渡る。ずっと右側方に見えていた富士だが、右斜め後ろに見えるようになってきた。
ひたすら西へ。本市場という町に入った。立派な静岡県の富士総合庁舎の前を通過すると、すぐ先に「旧東海道 間宿 本市場」という標識が立っていた。この辺りは、吉原宿と蒲原宿の間の宿だったようだ。
中央分離帯のある幅広の2車線道を横断すると、すぐ北側に法源寺という立派なお寺がある。
法源寺の開創は、史料によって差異があり、応永元年(1394年))、あるいは明応元年(1492年)の2説がある。当初は米之宮浅間神社(法源寺から約500m北)の東隣にあった。
騒乱の世であったため、寺は衰退し、長らく無住時代が続いたが、天正年間(1573−91年)、武田勝頼家臣であった高田六郎兵衛が本市場に流れ着き、宿の世話人であった飯塚氏の婿となり、寺と檀縁を結び、寺院を現在の地に移転したという。
現在の本堂は、明治38年(1905年)の再建。
法源寺から西へ。県道396号線を横切ると、王子製紙の施設に囲まれて西進するようになり、次に富士第一小学校の南側を通過すると、南北に走るアーケード街と交差する。
これが富士本町商店街で、通りの富士本町通りは、南のJR富士駅前から伸びてきている。
富士本町通りを横断し、さらに西へ進んで行くと、富士大橋通りとの交差点の手前北側に栄立寺(えいりゅうじ)が建っている。
栄立寺を開山したのは、日蓮宗の総本山身延山久遠寺の第18世妙雲院日賢上人である。日賢上人は文禄元年(1592年)に当山に入寺し、慶長4年(1599年)に入滅していることから、開創年代は文禄前後の天正〜慶長の何れかと思われる。
日賢上人は、当寺を日蓮宗普及の拠点として、活躍したと伝えられている。
富士大橋通りを挟んだ向かいには金正寺が建つ。
金正寺は、寺伝によれば、戦国期に僧玉隠が真言宗金正院として開創したが、その後、荒廃し、宝暦13年(1763年)、この辺りの領主であった旗本日向氏と、その知行地を管理していた豪農の松永安兵衛が復興した。
松永家は、静岡県下有数の大地主で、その屋敷の一部は現存し、富士市の指定文化財であり、同市広見公園に移築され、公開されている。
明治維新後は、郡会議員、貴族議員に就く一方、小学校建設に資金提供し、製紙工場や富士駅の誘致にも尽力するなど、富士市の近代化を後押しした。
また、金正寺には「金正寺の猫」という、寺に飼われていた猫が、近郷の猫を集めて、夜な夜な踊りの集会を開いていたという伝説が残っている。
西進を続けていくと、JR身延線の柚木(ゆのき)駅のすぐ東側で、東海道は県道396号線に吸収される。
「この辺り、ロードサイド店が多いな」と思っていたら、昨日(●)に引き続き、また回転寿司を見つけてしまった… 「かっぱ寿司富士柚木店」で、この店も土日祝は10時オープン(笑)… 県道と街道の合流点から500m以上東に戻る必要があるが、何の躊躇もなく戻る私(笑)…
折しも、「かっぱの冬のかに祭り」が開催中で、「店内仕込 ずわい蟹の茶碗蒸し」をオーダー! ビールが染みる…
怒涛の寿司攻撃! 全て期間限定メニュー「蟹うにいくらの贅沢軍艦」(左)、「うに3貫」(右)、「中トロ1貫」!
怒涛の寿司攻撃が続く。「いわし」(左)、「えんがわ二枚重ね」(右)、「あわび」!
ハイボールにスイッチし、昼前から順調に杯を重ねていく(笑)…
「大えび1貫」と「つぶ貝」!
「大トロ1貫」! 昼前からベロベロに… 本日のゴールに想定している由比までは、まだ15km以上歩く必要があるのだが…
酔っぱらって、「かつお出汁入りあんかけ茶碗蒸し」も発注! 茶わん蒸し本日2個目(笑)…
完全にベロベロ(笑) 何とか、柚木駅に戻り、街道歩きを再開。
柚木駅の手前街道北側に天白(てっぱく)神社が鎮座する。
天白神社は、柚木地区の鎮守で、地元の伝承では、養老年間(717−24年)のある年、柚木村の初穂田(はつほだ)という田んぼに、とかなり大きな米粒が3粒、天から降ってきた。米粒の大きさは、長さ一寸八分(約6cm)もあったという。
村人たちは、「この土地はお米の神様と関係があるに違いない」と米粒の一つを祭って、天白神社と名づけた社を建て、残りの2粒は、米之宮浅間神社(富士市本市場)と出雲大社に奉納したという。
ローカル線のJR身延線だが、柚木駅一帯は高架化されている。
富士川に架かる富士川橋の東詰まで、東海道は一度、県道396号線を離れるが、基本は県道に沿って進み、いよいよ富士川へ。
富士川橋の東詰北側には、水神社が鎮座しており、境内に「富士川渡船場跡」の石碑が立っている。
舟の運航権は旧岩渕村が掌握し、舟賃は一人六文であったとのこと。
石碑には「慶長6年(1601年)、徳川家康により東海道伝馬(宿駅)制度が定められ、まもなく日本橋を起点とする五十三次が誕生しました。
またこの地から数十メートル南の旧東海道沿いに岩渕村が管理した船場詰所が存在したといわれる。
これらのことを後代に伝えるため、東海道の百年祭記念事業の一つとしてこの碑を建立する
平成十三年(二〇〇一)九月 岩松地区まちづくり推進会議」との碑文が刻印されている。
水神社は、正保年間(1644−48年)に旧籠下村(現:富士市松岡)の開拓のため行った、富士川の堤防工事の完成・治水を願って建立された。
元々は、富士川の西岸に鎮座しており、社域は頑丈な岩盤に覆われ、幾多の大水や地震にも崩れることはなかったため、大洪水により富士川の流れが変わり。いつしか東岸に位置するようになったらしい。
堤防工事は、旧中里村の古郡孫太夫重高が、元和7年(1621年)に、当地から上流の岩本上に一番出し、二番出しといわれる突堤を築き、その子重政も、引き続き、代官に任じられ、新田開発のため手腕を発揮した。さらに重政の死後、その子文衛門重年は富士川の水勢を弱めるため、氾濫時に水流を留める広大な遊水池を準備することを着想し、逆L字型の堤防を築造した。
これらの堤防群は、岩本山山裾から水神社に至る全長2.7kmの規模を誇り、堤の形状が雁が連なって飛ぶ形に似ていることから「雁堤」と呼ばれている。雁堤は、古郡重高?重政?重年の三代にわたる50年余の歳月と莫大な経費、そして治水の工夫を結集して完成し、以後富士川の氾濫から守られた加島平野は、「加島五千石の米どころ」ともいわれる豊かな土地に生まれ変わった。
富士川橋を進む。県道396号線の富士川橋は、旧R1で、大正13年(1924年)完成の6連トラス橋で、橋長399m。
古い橋ながら交通量は多く、慢性的に渋滞が発生しているため、富士川橋の上流に新々富士川橋(通称:富士川かりがね橋)が平成14年度(2002年度)から建設中で、20年以上の時をかけ、ようやく今年の3月9日に開通するらしい。
さすがに日本三大急流の一つということもあり、川の勢いは凄まじい。
富士川を渡ると、高台に上り、街道は南に方向を変える。
この辺りは岩渕村といい、富士川の渡船役を務め、また、富士川舟運の船着場という機能もあったため、幕府は慶長14年(1609年)8月、伊奈忠次(武蔵小室藩初代藩主で、新田開発、河川改修のプロ)に宿場と同様の街並みにするよう命令し、こうして岩淵村は、吉原宿と蒲原宿の間に位置する「間宿岩淵」と位置付けられた。
元々、宿場は富士川沿いの低地にあったようだが、富士川の水害に度々見舞われ、特に宝永元年(1704年)の大水害で宿場の大部分が流され、さらに、宝永4年(1707年)には大地震に見舞われ、宿場町は完全に崩壊したため、高台に移転し、東海道も付け替えられた。
間宿の中心に、岩淵小休本陣を務めた常盤家住宅が残っている。
常盤弥兵衛家は、慶長7年(1602年)、対岸の川成島から岩淵村へ富士川の渡船役が移った時、同じ渡船名主である齋藤縫左衛門家、齋藤億右衛門家とともに富士川東岸から移住し、以降、常盤家は渡船名主を世襲で受け継ぐとともに、村方名主も年番で勤めてきた。
併せて、間宿岩淵を利用する大名や公家などが休憩をする「小休本陣」も江戸時代初期から務めた。小休本陣では、休憩を原則とし、宿泊することは幕府から禁止されていたため、別名「立場本陣」ともいわれていた。
明治に入っても、常盤家は、村の役職を歴任し、明治11年(1878年)に岩淵村・中之郷村・木島村が合併し、富士川村となると収入役を勤めた。
常盤家住宅は、岩淵に唯一残った名主及び小休本陣の建物で、常盤家所蔵の古文書から、嘉永7年(1854年)11月4日に発生した安政東海大地震で全ての建物が倒壊したとの記録が残っていることから、現存の建物は、安政期に入ってから再建されたと考えられている。
表門は、寺社などで使われる「薬医門」という形式で、簡素ながら重厚な造りとなっているほか、主屋部分は、一部改築されているが、柱の配置や構造材は建築当初のものと推定され、江戸時代末期の姿を残す歴史的価値の高い建物であり、国の登録有形文化財である。
間宿内の街道筋から少し離れた場所に新豊院があるので、寄ってみる。
新豊院は、正治元年(1199年)、真言宗の光明山心包院として創建され、天文4年(1535年)、曹洞宗に改宗後、延宝7年(1679年)、伽藍整備のうえ、光福山新豊院と改められた。現在の本堂は、大正2年(1913年)の再建。
新豊院で有名なのは、何と言っても「駿河三大布観音」の一つで、日本一とも謳われる白布に描かれた巨大な聖観音菩薩で、大正13年(1924年)、昭和天皇がご成婚されたのを奉祝し、当地出身で東京美術学校(現:東京芸大)教授の大村西崖画伯に揮毫を依頼、4日半を要して書き上げられた、縦40m、横17mの巨大布観音である。
長らく風雪に耐えていたが、平成11年(1999年)に開催された新豊院開創800年記念事業として、国際水墨画協会の室伏春玲会長
をはじめ、協会員の協力を得て、さらに大きい、縦45m、横18mの布に複写された。
現在は、毎年11月の第4日曜日に新豊院裏の観音山に掲揚し、ご開帳されている。
東海道が枡形を形成する入口の両側に一里塚がある。
起点の江戸日本橋より37里目にあたり、エノキが植えられているが、東側の榎は二代目だがかなりの古木で、見事な風格を保っていおり、静岡県指定の記念物である。
一里塚は、明治以降、道路拡幅等により大部分は取り壊されたので、左右一対が残されている珍しい例であり、保存状態も良好であるため、こちらは静岡県の史跡に指定されている。
何度か西へ南へ折れながら、進んで行き、東名高速のガードをくぐる。
ガードの手前からの富士は見事だ。
静かな集落の中を進んで行き、今度は新幹線のガードをくぐる。徐々に登って行く。いつしか東名高速道と並行して南へ進むようになった。
東名高速上に架かる「新坂橋」で、高速の東側に出る。橋上からの富士も素晴らしいが、ここから蒲原宿に「新坂」という坂道を下ることになり、以降、前山が邪魔をして、富士の姿はほぼ見納めとなる。
「新坂」は、当初はより富士川沿いに付けられていたようだが、天保14年(1843年)の水害で、西側に付け替えられたとのこと。
前方に駿河湾を垣間見ながら下っていく。もうすぐ蒲原宿というところで、街道が西へ直角に曲がる手前に光蓮寺が建っている。
光蓮寺は、元和6年(1620年)、戦で亡くなった万霊を弔うために建立されたお寺だが、浄瑠璃の元となった、浄瑠璃姫の供養も行っていた。
浄瑠璃姫伝説は、源義経と三河・矢矧(現岡崎市)の長者の姫・浄瑠璃姫との悲恋の物語て゛、義経か゛源氏再興のため、京から奥州へ向かう途中、浄瑠璃姫と恋に落ちるか゛、奥州へ旅立つため、「薄墨」の名笛を姫に残し、別れた結果、矢矧に伝わる伝説は、その後姫か゛別れを悲しみ、とうとう乙川に身を投け゛てしまう、というものて゛ある。
ここ蒲原には、少し異なる伝説が残っており、義経は奥州への旅の途中、蒲原て゛病に倒れてしまい、息絶えてしまう。その知らせを受けた浄瑠璃姫は、急き゛蒲原に向かい、義経の亡骸にすか゛って泣くと、その涙か゛義経の口の中へ流れ、息を吹き返した。そして義経は再ひ゛奥州へ旅立ち、姫は義経との別れを悲しむあまり、三河へ帰ることか゛て゛きす゛、そのまま蒲原の地て゛息絶えてしまったという。姫の死と恋心を哀れみ、蒲原の人たちか゛塚を築き供養した。塚には6本の松の苗木か゛植えられ、後に旅人の道しるへ゛となったという。
街道が南から南西に方向を変えると、蒲原宿の東木戸跡があり、ようやく15番目の宿場町に到着。
蒲原宿は、富士川の渡しを控え、川止めになると旅人で賑わったという。
天保14年(1843年)の「東海道宿村大概帳」によると、宿内の家屋は509軒、本陣1、脇本陣3、旅籠42軒で、宿内人口は2480人を数えたという。
東木戸跡から少し西に進んだ街道北側に龍雲寺がある。龍雲寺は、室町時代中期の守護大名、今川範忠(義元の曽祖父)を開基として創建された。
境内には、高松藩の槍の名人、大久保甚太夫の墓がある。承応2年(1653年)、甚太夫らが江戸へ行く途中、薩摩藩の大名行列と出会い、槍の穂先が相手の槍と触れたことで口論となり、茄子屋(西木戸辺り)で薩摩藩の大名行列と乱闘が始まり、七十人近くを倒したものの、最後に追っ手に見つかり殺されてしまったという。
当時の竜雲寺住職が、墓地に葬り供養した。甚太夫の槍の穂先は、現在寺宝として保存されている。
龍雲寺の西隣には、東漸寺(とうぜんじ)が建つ。
東漸寺は、北条重時(北条義時の三男)の嫡男、石川式部入道勝重の発願により、元弘元年(1331年)創建された古刹で、当初は現地から500mほど西にあったが、将軍家光が上洛の際、宿泊地とするため、寛永元年(1624年)に増改築された時に移転した。
本陣に近いことから、混雑時は臨時の宿舎となったという。
街道筋に戻る。なまこ壁が特徴的な家屋が残っている。
佐藤家住宅で、「佐野屋」という商家跡である。壁は塗り壁で町家に多く見られる造りで、このような町家を「塗り家造り」という。
「塗り家造り」は「土蔵造り」に比べて壁の厚みは少ないが、防火効果が大きく、昔から贅沢普請ともいわれている。もともとは城郭などに用いられた技術であり、一般には江戸時代末期以降に広まったと考えられている。なまこ壁の白と黒のコントラストが装飾的で、黒塗りの壁と街道筋には珍しい寄棟の屋根とがあいまって、重厚感に溢れている。
蒲原宿は、古民家が良く残っており、街道の風情が色濃く残っている。
なまこ壁の家のすぐ西の街道南側に蒲原宿西本陣跡がある。
かつては、ここから100mほど東に東本陣(多芸本陣)もあり、江戸時代の中頃までは、東本陣(多芸家)と西本陣(平岡家)の2家で務めていたが、宝暦年間(1751−63年)に多芸家が絶え、以後幕末まで平岡家のみが本陣を務めた。
平岡家は、明治11年(1878年)に京都に転居し、現在の建物は大正時代のものだが、邸内には今も、大名が駕籠を置いたとされる「御駕籠石」が残っているらしい。
蒲原宿西本陣跡から西へ。高札場跡のすぐ西の街道北側に、瀟洒な洋館が建っている。旧五十嵐歯科医院だ。
大正3年(1914年)に、当時の当主故五十嵐準氏が歯科医院を開業するに当たり、町家を洋風に改築。その後昭和15年(1940年)ごろまでに、西側・東側部分をそれぞれ増築し、現在の形になった。
旧来の町家の特徴を残しながら、外観が洋風というユニークな造形が評価され、国の登録有形文化財となっている。
旧五十嵐歯科医院の西はす向かいに、志田邸がある。
安政元年(1854年)の安政東海地震で一部倒壊し、その後に再建された商家で、間口が狭く奥まで土間が通じる江戸期の典型的な町家建築で、蔀戸(しとみど:分割された戸板を上部に引き上げたり、はね上げて吊ったりして開閉する形式の戸)、箱階段、囲炉裏などが建てられた当時のまま残り、国登録有形文化財に登録されている。
現在は、東海道町民生活歴史館として公開され、建物内では、志田邸で江戸時代から使われてきた生活関連品などを展示するとともに、幕府が作成した絵地図等の記録も紹介されている。
志田邸から少し西に進んだ街道北側にも目立つ旧家が建っている。
増田家住宅で「美しい格子戸の家」との案内板が立っている。確かに千本格子が美しい。
格子戸は、古くは平安時代に初めて現れた建具で、伝統的な日本建築工法の一つ。細い角木を縦横に間をすかして組み、窓または出入口に取り付けるもので、組子の組み方にも幾種類かあり、また、組子だけで吹通しのものや、面に板を張るものなど、その土地の気候風土に合わせた工夫がなされている。
かつての蒲原宿では、街道沿いに格子戸の家並みが続き、毎日主婦によって磨き込まれた美しい木目が、この町独特の情緒ある風景を作り出していた。
街道筋が南に直角に左折する手前に、長栄寺への参道が右に分かれているので、寄り道する。
長栄寺は、浄土真宗で、慶安3年(1650年)の建立。
街道筋は南に100m強進んで、直角に右折し、枡形を形成、県道396号線に合流する。
この辻の東北角に、蒲原宿西木戸の標柱が立っている。かつて茶屋の「茄子屋」が営業していたことから、「茄子屋の辻」と呼ばれており、先ほどの龍雲寺のくだりでも触れたが、高松藩の大久保甚太夫が薩摩藩士と大乱闘を繰り広げた場所である。
蒲原宿を離れるが、西木戸跡のすぐ西に、和歌宮神社の参道が北側に延びているので、こちらにも立ち寄る。
和歌宮神社の創建は不詳で、御祭神は山部赤人であり、「万葉集」に収められる有名な
「田子の浦ゆ うち出でてみれば 真白にぞ 富士の高嶺に 雪は降りける」
の歌がこの地にて詠まれたことが由来であるとされる。
織田信長は甲州征伐の後、甲斐国から駿河国に入り、天正10年(1582年)4月13日に蒲原を通過しており、その様子を「信長公記」では「暫く御馬を立てられ知人に吹き上げの松六本松和歌の宮の子細御尋ねなされ」とあり、織田信長は和歌宮神社の詳細を訪ねたとの記載がある。
この辺り、東海道は県道396号線に沿って進んで行くが、味気ないし、北側に細道が並行して走っているので、こちらを進んで行く。
細道の北側に白泉寺があったので、立ち寄ってみる。
白泉寺の創建は不詳だが、過去帳に明暦元年(1655年)の日付で、伊右エ門なる者の戒名があることから、寛永、慶安の頃に開設されたものと思われる。
白泉寺からすぐ西に上山(うえのやま)神社が鎮座する。
上山神社の創建は不詳だが、小金村の鎮守であり、天平勝宝2年(750年)、奈良東大寺の大仏を鋳造するため、全国の国司に黄金を献ずる旨の命令があり、時の駿河の国司が献上するための黄金を獲た処を小金村と称しと大日本史に記載があるので、それ以前に鎮座していたのではと推測されている。
上山神社を後に、300mほどさらに西進すると、貞心寺が道路北側にある。本堂のすぐ背後には東名高速が…
林庵逸道という僧が、元和年間(1615−24年)に開創したとされるが、詳細は不明。
貞心寺のすぐ西に八幡神社が鎮座する。こちらも東名高速のすぐ下だ。しかし、社叢が豊かで、境内は高速道横とは思えない荘厳さが漂っている。
御祭神は誉田別命で、慶安3年(1650年)に創建されたとのことだが、詳細は不明。
境内には、いぼ取り地蔵尊がおられた。
八幡神社の300mほど西に関口神社が鎮座する。
こちらも椎の木などの古木が鬱蒼としており、厳かな雰囲気が漂っている。
御祭神は、建角美命で、創建は不詳は、社伝によれば延喜5年(905年)頃の創建と伝わる古社。500年以上前に社殿が焼失したが、天明元年(1781年)に再建されたとのこと。
関口神社の200m南にJR蒲原駅がある。この辺りは蒲原町の西外れであり、駅前も閑散としている。なんでこんなところに駅があるのか気になったので、調べてみると、元々は、蒲原宿近くに駅が設けられる予定だったが、隣村の岩淵村等が積極的な誘致を行い、岩淵駅(現富士川駅)が岩淵村隣の中之郷村に設けられたため、距離が近すぎるとして蒲原には駅が置かれなかった。
その後、蒲原町は、粘り強く駅の誘致活動を行い、鉄道開業から1年3箇月後の明治23年(1890年)5月16日にようやく蒲原駅が設けられたが、岩淵駅との距離や、隣町の由比町からも駅設置の強い請願を受けていたため、蒲原と由比の間にある旧堰沢村の位置に蒲原駅は設けられた。
しかし、結局、この場所が不便だったので、昭和43年(1968年)に新蒲原駅が蒲原宿のあった場所に設けられ、開業後すぐに蒲原駅の乗降客数を上回ることになった。それは現在も同様で、それどころか、令和3年度(2021年)の1日の平均乗車人員は551人で、静岡県内の東海道本線の駅で最も乗車人員が少ない(笑)
JR蒲原駅前から県道396号線を西進。東名高速をくぐった先の「神沢」というY字路交差点で県道を離れ、街道筋は左手へ。
何やかんやで、江戸から39番目の一里塚まで来ました。一里=約3.9kmとして、江戸日本橋から約152kmですか… 気が遠くなります。
他の一里塚と同様、昔は街道両側に松が植えられていたそうだが、寛文年間(1661−73年)に北側の松が枯れてしまったらしい。
一里塚から150mほど南西に進んで行くと、枡形の痕跡があり、ここが由比宿の東木戸で、由比宿に入った。
一里塚から200mほど南西に進むと、本陣跡があり、約1300坪もあったという本陣の跡地は「由比本陣公園」として整備されており、カルチャー、観光、レスト、ショップの4つのエリアが整備され、由比の交流拠点になっているようだが、本日は当然ながらお休み…
由比は、鎌倉時代から続く宿場町で、天保14年(1843年)の「東海道宿村大概帳」によると、由比宿には大名が宿泊する本陣1軒、脇本陣1軒、そして旅籠屋は32軒で、宿内家屋は160軒、人口は713人という、比較的小規模な宿場町であったが、この先に難所の薩?峠越えを控え、賑わっていたようだ。
本陣跡の街道を挟んで向かいに「由比正雪の生家」の標識が立っている古民家がある。
由井正雪の生家と伝えられており(正雪の出自については諸説あり、定かではない)、現在は「正雪紺屋」という染物屋を営まれており、店内には、江戸期を偲ばせる藍がめや染物の道具が並べられ、手拭いを中心とした和の小物も販売しているが、こちらも当然休業…
正雪は家業を継がず、江戸に出て軍学者として名声を挙げ、当時困窮していた浪人救済のため、幕府の転覆を企てたが、事前に発覚し、慶安4年(1651年)に駿府で同士とともに自刃した(慶安の変)。
由比正雪の生家の少し西に、「脇本陣温飩屋(うんどんや)」の標識が立つ古民家がある。
由比宿には脇本陣を交代でつとめた家が3軒あり、そのうち江戸時代後期から幕末まで務めたのが、この温飩屋になる。建坪90坪で、玄関付き門構えであったとの記録がある。
脇本陣温飩屋のすぐ西に、モダンな建築物があるが、現役の銀行の出張所のようで、「清水銀行由比支店本町特別出張所」とある。
元は庚子(こうし)銀行の本店社屋として建てられたもので、庚子銀行は、明治33年(1900年)3月1日に設立され、その名称は庚子年の庚子日に由来すると伝わる。
この建物は、大正14年(1925年)、由比町内初の鉄筋コンクリート造で、立面は4本のイオニア式柱頭を持つ柱を立て、古典様式の基本に則る。内部は吹抜けの広い空間を有し、小規模ながら洗練された様式を持つ,大正期の地方における銀行建築の好例であり、国登録有形文化財である。
昭和3年(1928年)、庚子銀行は近隣5つの銀行と合併し、駿州銀行となり、昭和7年(1932年)にはさらに旧清水銀行が合併し、昭和23年(1948年)、名称を清水銀行と改め、現在に至っている。
清水銀行由比支店本町特別出張所から、脇本陣跡2軒を通過すると、由比宿の西木戸跡で、枡形跡がある。ここで由比宿を離れる。
西へ進む。由比川、和瀬川を立て続けに渡ると、北側に公園があり、その奥に豊積神社が鎮座しているので、参道へ。
豊積神社は、駿河国二宮を称しており、社伝では、延暦10年(791年)創建の古社で、坂上田村麻呂が東征の途中で戦勝を祈願、そして帰途に戦勝祝いとして神楽を奉納したといい、例祭のお太鼓祭(県指定無形民俗文化財)の起源はその神楽にあるとの伝承もある。
街道筋が南に方向を変えると、JR由比駅は近い。宿場町から少し離れているのは、東隣の蒲原駅との距離が近すぎることが原因か。
本日の街道歩きはこれで終了。何か駅に既視感があったが、やはり、11年前に浜石岳を登った際に来ていた…
駅の跨線橋に登ると、富士の頂上部が僅かに見えた。
静岡方面へ戻るが、静岡駅の一つ手前の東静岡駅で下車し、ほぼ駅前の「天然温泉 柚木の郷」さんに立ち寄る。
広大な露天風呂スペースの一角にある熱風茶屋(要はサウナ小屋)でボーッとサウナに浸っていたが、この時に能登半島地震が…
まず、テレビで地震が発生したことを知り、その数秒後、超長周期の揺れが襲ってきた。だいぶ離れた静岡なのに、けっこう揺れて、サウナの上段に座っていた私は、転げ落ちそうになるくらいであった…
「旬のお料理 さんすい草木」さんで一人元旦宴@! 17:08
どうせ静岡市内に戻っても、元旦で店はほとんど開いてなさそうだったので、温泉内にある「旬のお料理 さんすい草木」さんで呑んでいくことに。
今日は30km弱歩いたので、生大でスタート! ビールが染みる…
そして、蒸し鶏と梅くらげと、しらすおろしがお供だ。あ〜最高!
「旬のお料理 さんすい草木」さんで一人元旦宴A! 17:14
鶏白湯鍋が登場! コラーゲンたっぷりのこってりスープが最高です!
生大2杯目(笑)! 最後はうどんで〆て、スープも完飲! 大満足で静岡駅に戻り、ホテルの部屋で追撃戦をして、2024年の元旦は終わった… 明日は最終日だ。
参考タイム
1/1 | JR原駅 5:50 ⇒ 7:20 六王子神社(JR東田子の浦駅前) 7:20 ⇒ 8:20 JR吉原駅北口 8:20 ⇒ 9:00 岳南鉄道吉原本町駅 9:00 ⇒ 10:00 富士市本町 10:00 ⇒ 10:20 JR柚木駅(かっぱ寿司富士柚木店) 11:30 ⇒ 12:15 間宿岩淵小休本陣 12:15 ⇒ 12:20 新豊院 12:30 ⇒ 13:40 蒲原宿西本陣跡 13:40 ⇒ 14:25 JR蒲原駅 14:25 ⇒ 14:45 由比宿本陣跡 14:45 ⇒ 15:20 JR由比駅 |
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