−西横堀川跡から大村益次郎寓居跡など、肥後橋周辺を散策してからの朝呑み&スロット三昧(笑)−
山行概要
2023年7月15日(土) | |
大阪市街 | |
曇り | |
単独 | |
京阪渡辺橋駅=0:15=筋違橋=0:15=「大村益次郎先生寓居跡」の碑=0:20=京阪淀屋橋駅【0:50】 |
記録文(写真はクリックで拡大)
海の日の三連休だが、梅雨が明けない… それどころか、北陸を中心に壊滅的豪雨だ… 近畿も連休初日の土曜日はすっきりしない天気…
天候回復を期待し、日月で白山や御岳を狙うことにし、この日はもはやルーティンとなった「大阪あそ歩」のモデルコース歩きからの呑んだくれツアーに向かうことにする。
京阪渡辺橋駅を下車。地上に上がって、四ツ橋筋を南下し、肥後橋を渡らず左折し、1本東の錦橋を渡る。つい3週前にも訪れたばかりだ。
錦橋は、歩行者専用橋で、可動堰として昭和6年(1931年)に設置され、土佐堀川可動堰とよばれた。昭和60年(1985年)に橋面の美化改修が行われた際に新たに「錦橋」の名称がつけられた。
錦橋を渡り、さらに土佐堀通も南へ渡った阪神高速の高架下の植栽スペースに「西横堀川跡」の碑が立っている。
西横堀川は、肥後出身の材木商、永瀬七郎右衛門が開削したことから、当初は「七郎右衛門堀」と呼ばれていた。
また、西横堀川に架かっていた今は土佐堀通となっている西国橋の西詰には鴻池、三井と並び称せられた両替商・加島屋久右衛門の店舗があり、加島屋は明治・大正期には広岡財閥となって加島銀行を設立、現在の大同生命のルーツとなった。
西横堀川は、昭和30年代には、既に船も通わず、ドブ川と化していたが、阪神高速の建設の際に、埋め立てられた。
「西横堀川跡」の碑から、四ツ橋筋の一筋東に当たる撞木橋(しゅもくばし)筋を少し南下すると、阪神高速土佐堀ランプ手前の植栽帯に、今度は「阪神高速開通」の記念碑が置かれている。
記念碑は、昭和42年(1967年)に阪神高速として、初めて供用開始された1号環状線が全線開通したのを記念し、阪神高速道路公団創立20周年に合わせて建てられた。
1号環状線は、開発済みの大阪市中心部に敷設されたことから用地の確保が困難であったため、西横堀川をはじめ、堂島川や東横堀川等の水路上を利用して建設されている。全線時計回りの一方通行の都市高速道路である。
「阪神高速開通」の記念碑から内北浜通を東に進み、阪神高速の高架をくぐった先の辻を右折し、横堀筋を南下、一つ目の辻を左折し、少し東に進んだ道路南側の雑居ビルの壁に「梅花社跡」のプレートが貼られていた。
梅花社は、伊予から大坂に出て、紙屋と両替屋を営み、後に儒者となった篠崎三島(さんとう)が、現在の西区土佐堀1丁目辺りに安永5年(1776)に開いた私塾で、三島には後継ぎがなく、弟子の加藤金吾(のちの篠崎小竹)が 、13歳の時に望まれて養子となった。
しかし、頼山陽に感化された小竹は、家を飛び出し、江戸に遊学、尾藤二洲や古賀精里に学び、朱子学者に転向するが、その後、養父三島に詫びて和解が成立し、この地に新たに広大な邸宅を構え、梅花社を継いだ。塾は三島の頃よりも栄え、育てた門人は1500人を超えたという。
横堀筋に戻り、再び南下する。2つ目の辻が高麗橋筋との交差点で、右折し、斜めに南西に進む。
阪神高速の高架下に「筋違橋跡」の碑が立っている。
筋違(すじかい)橋は、高麗橋筋から今は埋め立てられた江戸堀川南岸へ筋違いに斜めに架けられた橋で、その形状が名の由来である。また、筋違橋を渡って、すぐの所に大坂名物となっていた寿司屋「すし萬」があったので、筋違橋は「すしかい橋」とも呼ばれた。
西に進み、四ツ橋筋を横断、江戸堀南通に入り、さらに西進する。
通りの南側に西船場小学校が現れるが、学校の柵に「先賢景仰」の碑が立っている。
この辺りは、江戸時代以来多くの先覚者・学者・文化人を生みだした地で、この碑はそれを記念し、西船場小学校の前身である東江小学校の創立50周年に合わせて、昭和10年(1935年)に建てられた顕彰碑である。
藤沢章の撰文で、頼山陽をはじめ、篠崎三島・小竹などの学者らの名前が連なっている。
さらに西進し、なにわ筋を横断、一筋北の土佐堀通に出て、さらに西進すると、ビルの敷地の一角に「大村益次郎先生寓居跡」の碑が立つ。
大村益次郎は、維新の十傑の一人で、弘化3年(1846年)、23歳の時に山口から大坂に出て、緒方洪庵の適塾で学び、極めて優秀な塾生で嘉永2(1849年)には塾頭を務めた。当初は塾に寄宿していたが、後に当地にあった江戸堀の倉敷屋作衛門邸に下宿した。
長州藩に帰国後、高杉晋作の奇兵隊を指導し、長州征討や戊辰戦争の勝利の立役者となった。明治新政府の兵部省初代の大輔を務め、日本陸軍を整備し、「近代日本陸軍の父」と呼ばれている。
しかし明治2年(1869年)、京都で国民皆兵反対派の刺客に襲われ、46歳で没した。
東へ戻り、なにわ筋を渡った先で土佐堀通と別れ、右斜めに伸びる江戸堀北通に入り、さらに東へ進む。
通りの北側に立派な教会が見えてきた。
これが日本基督教団大阪教会で、米国宣教師ゴルドン氏の伝道で明治7年(1874年)、西区に創立された梅本町公会が前身の、平成16年(2004年)には創立130周年を迎えた日本最古級のプロテスタント教会である。
現教会堂は建築家ヴォーリズの設計で大正11年(1922年)に建造された、ロマネスク様式のクラシックな赤レンガ建築で、重厚なアーチや
尖塔、切妻屋根、美しいバラ窓(円形飾り窓)を有する、非常に美しい教会で、国の登録文化財である。
さらに東進すると、金光教の玉水教会が現れ、その南向かいに玉水記念館が建っているが、その敷地内に「頼山陽生誕地」の碑が立つ。
頼山陽は江戸後期の歴史家・漢詩人・文人で、安永9年(1780年)、広島藩の儒学者・頼春水の子として、春水がこの地に開いていた私塾「青山社」があったこの地に生まれた。
江戸に遊学後の寛政12年(1800年)、突如、脱藩を企て失敗して、廃嫡のうえ自宅へ幽閉されるが、そこから源平、南北朝時代から徳川時代までの武家の栄枯盛衰を書いた歴史書「日本外史」を文政9年(1826年)に執筆、大ベストセラーとなり、尊皇の志士達に多大な影響を与えた。
「頼山陽生誕地」の碑の向かいの金光教玉水教会は、昭和10年(1935年)の建築で、木造平屋建てで一部を2階建てとする裳階付きの大型和風建物である。
堂々とした外観で風格があり、国の登録有形文化財に指定されている。
淀屋橋駅に出て、いつものように京橋へ(笑)…
24時間営業の「地魚酒場 魚八商店 京橋店」さんへ。この時間でも普通に客がいるのがさすが京橋(笑)
マグロの中トロと赤身の2種盛りでスタート!
「魚八商店」さんと言えば、海鮮天ぷらでしょう! エビ、キス、イカ、シシャモ、アナゴ等と、焼酎麦ソーダ割で、2週前と同様、8時過ぎにして、すっかり酩酊状態(笑)
さあ、勝負だ! 9時45分の「京橋会館&GENESIS」さんの入場抽選に並び、無事にスマスロ北斗の拳を確保したが、3時間打って、収支トントンと、また時間の無駄に(笑)… 何やってんのか…
「天下一品 京橋店」さんに吸い込まれる… 「こってりMAX」はお初だ。レンゲが沈まない(笑)…
こってりMAXスープを堪能し、腹を抱えながら帰宅した。
またしても、何してるかさっぱり意味不明の1日だった。
参考タイム
7/15 | 京阪渡辺橋駅 6:55 ⇒ 7:10 筋違橋 7:10 ⇒ 7:25 「大村益次郎先生寓居跡」の碑 7:25 ⇒ 7:45 京阪淀屋橋駅 |
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