善光寺街道(北国街道)その2(小諸〜上田)

−善光寺街道歩き2日目 一転した快晴のもと上田へ−

   

山行概要

日 程
2022年4月30日(土)
山 域
善光寺街道
天 気
快晴
メンバー
単独
コースタイム
JR小諸駅=1:30=力士雷電の碑(滋野)=0:50=しなの鉄道田中駅=0:25=海野宿跡=0:25=しなの鉄道大屋駅=1:10=科野大宮社=0:15=JR上田駅【4:35】

記録文(写真はクリックで拡大)

 昨日とは一変、快晴の空の下、気分良く小諸駅を出発! まずは、街道筋に戻る。小諸宿本町から北国街道歩きを再開する。
 小諸宿は、小諸藩牧野家1万五千石の城下町に、宿場としての機能が加わったことで大変栄え、江戸中期には東信濃を代表する経済的地域となった。

小諸宿本町の町並み 6:38

 本町は趣ある建物が多い。また、ゆっくり巡ってみたいです。
 旧本陣跡の標識を過ぎ、しなの鉄道をくぐると、古い街並みは途切れ、「懐古園入口」交差点を横断、さらに下って行くと、天王社の境内に突き当たるので、ここを右折し、すぐに左折する。この辺り大きな枡形になっています。
 静かな住宅街の中を再び西に進んで行く。この辺り「新町」と言うらしい。

青木諏訪神社 6:55

 街道筋が右にカーブする辺りに青木諏訪神社が建つ。
 青木諏訪神社は享保元年(1741年)に近くの青木の地から移され、この辺りの産土神として、篤く信仰された。
 本殿や拝殿は何度も建て替えが行われたが、現在の建築物は、弘化4年(1847年)の建築と伝わる。

青木の一里塚跡 7:08

 県道142号線と何度か絡みながら、北西に進む。再び旧街道に入ったすぐ南側に青木の一里塚跡がある。
 この辺り、富士がかすかに見えたようで、「富士見坂」の旧名があり、この一里塚も「富士見の一里塚」とも呼ばれていた。

西光寺 7:15

 しなの鉄道線とR18を相次いで横断し、さらに西へ進むと、街道北側の高みに西光寺が建つ。
 天長5年(828年)開山の古刹で、現地へは小諸城鬼門除けの寺として移転したという。
 戦時中は、小林亜星氏ほか、杉並区の大宮小学校50数名の疎開先になっていた。

芝生田村の町並み 7:34

 西光寺から西進し、再びR18に合流。「深沢」交差点の少し先で、左に分岐する旧街道へ。
 この辺り、芝生田(しばうだ)村というらしく、趣のある町家が続いている。路傍の石祠も多い。そして、善光寺街道を歩いて気になったのが、集落に火の見櫓が点在していること。何でこんなに多いんですかね…。

男女双体道祖神 7:45

 そして、昔のアーチ型の石橋である眼鏡橋が現在の橋の下に残る大石沢川を渡ると、路傍に道祖神が佇む。
 隣には牛馬観音経一千巻碑も立つ。

東御市滋野辺り 7:57

 さらに西進。東御市に入った。この辺り滋野と言うらしい。
 街道南側は耕作地が広がり、見晴らしが利く。滋野児童館が見える。

力士雷電の碑 8:00

 滋野の旧牧家集落にはまた一里塚があり、そのすぐ先の、県道94号線と交差する辻の北西角に力士雷電の碑が立っている。
 雷電は、明和4年(1767年)、この地に生まれ、相撲取りとなり、現役生活21年、江戸本場所在籍36場所(大関在位27場所)で、通算黒星が僅か10個、勝率.962の大相撲史上未曾有の最強力士とされている。
 石碑は、佐久間象山の撰文並びに書によるが、この碑片を欠き取って身に付けていると、立身出世するとか、勝負事に勝つとかの迷信が生まれたため、欠いて持ち去る者が多く、碑文が読めなくなってしまったことから、新しい碑が建てられた。

縣諏訪神社 8:27

 しばらく坦々と西に進む。街道北側の公園(伊豆宮公園)の隣に縣諏訪神社が鎮座しており、立ち寄る。
 縣諏訪神社の創祀年代は不詳。明治までは諏訪社と称していたが、旧縣村に鎮座していることから、明治11年(1878年)、縣諏訪神社と改称した。
 縣村内の田中・常田・加澤三ケ村の産土神として崇敬された神社で、元は、字古宮と呼ばれる地に鎮座していたが、水害のため、享保元年(1716年)、現在地に遷移した。
 祭神は、他の諏訪神社と同様、タケミナカタである。

長久寺 8:38

 さらに西進すると、「常田(ときだ)南」という交差点に出て、この先の街道筋の道幅が急に広くなった。
 ここから田中宿の一帯で、きれいに再整備されている。宿場跡の東の入口北側に長久寺があるので、立ち寄る。
 長久寺は、名の通り長久2年(1041年)の創建で、かつてこの辺りを治めた豪族常田氏の祈願所であった。

田中宿脇本陣跡の「高木屋」さん 8:44

 幅広の違和感ある(笑)街道筋を西へ進む。街道北側に建つ「高木屋」の立派な社屋に「田中宿脇本陣跡」の看板が掲げられている。
 17世紀はじめに北国街道が成立した頃、田中宿と北西に僅か2km離れた海野宿は2つでひとつの宿駅の役割を果たす合宿(あいのしゅく)とされており、その主要な施設と機能は田中郷に置かれていた。
 海野は中世から続く古い城下町だったが、それ故に、街道の役割に合わせた集落構造の改変が難しかったため、新たに成立した田中の方がメインの宿場町に選ばれたらしい。
 しかし、寛保2年(1742年)の大型台風による豪雨で発生した大規模土石流で、田中は大きな被害を受けたことから、宿駅の役割は海野に移された。
 災害からの復興後、田中の住民たちは、主要な宿駅の役割を海野から田中に戻すよう、藩や幕府への申し立てを繰り返し、やがて田中に本陣や問屋が再び置かれるようになったが、宿場街としては、海野を補完補助する地位から抜け出すことはできなかった…

田中宿本陣跡の門 8:46

 「高木屋」の先の路地を右折すると、民家の庭先に本陣跡の門と「明治天皇田中小休所跡」が残る。
 海野宿の補完的役割とは言え、一定復興を果たした田中宿だったが、明治維新直前の慶応3年(1867年)に大火が宿場全体の約6割を焼失し、宿場の殆どが焼失してしまった。宿場機能が失われてからは、製紙業で発展を遂げる。
 さらに、海野宿北側に計画されていた鉄道駅の計画が、当時養蚕業が隆盛を極めていた海野宿にとって、汽車が排出する煙で桑が侵され、蚕に害になるとして、猛反対の運動が起こったため、田中宿に鉄道駅設置のお鉢が回るという僥倖…
 明治21年(1888年)12月1日に田中駅が開業し、鉄道交通網の発展とともに田中の商工業も飛躍的に発展向上し、現在は田中商店街として、東御市の中心の座を占めている。

馬に乗った勝軍地蔵 8:48

 街道筋に戻り、西に進んで最初の交差点が「田中駅前」で、東北角に馬に乗って武具・甲冑をまとった地蔵菩薩が立っている。天明6年(1786年)の銘がある、このタイプの地蔵さんは、戦いに勝ち、飢饉なども免れるご利益があることから、鎌倉時代以降、武家に信仰された。
 ここで街道筋として再整備された区間は終了。海野宿へ続く街道筋を北西に進む。

白鳥神社 9:07

 しなの鉄道の踏切を渡ると、海野宿の入口。白鳥神社が鎮座する。その名の通り、日本武尊が主祭神である。
 白鳥神社の創建は不詳だが、平安時代にはこの辺りの産土神として成立していたと思われ、以降もこの辺りを治めていた海野氏、真田氏の氏神として信仰された。
 白鳥神社拝殿は明治14年(1881年)の再建で、本殿は寛政3年(1791年)の再建で、江戸後期の神社建築の遺構として貴重であり、東御市の指定文化財である。
 海野宿が、国の重要伝統的建造物群保存地区に選定された際には、白鳥神社も景観の構成要素となっている。

白鳥神社の御神木 9:07

 拝殿前にある御神木のケヤキは、推定樹齢700年、樹高30m、幹周5.8mの大木。この他、境内には大木が多く、「白鳥神社の社叢」として、東御市の天然記念物に指定されている。
 また、境内には「木曽義仲挙兵の地」の案内板も立つ。木曽義仲は、後白河法皇の第二皇子高倉宮以仁王の令旨に応じ平家追討のため、大豪族であった海野氏の本拠地であるこの地(海野白鳥河原)で、治承5年(1181年)に挙兵したとされ、地元海野一族をはじめ、義仲公の四天王といわれた樋口、今井、根井、楯氏を中心に信州、西上州の武将3000騎がここに集結したと伝えられている。

海野宿 9:11

 街道は白鳥神社のところで右に直角に折れ、いよいよ古民家が建ち並ぶ宿場町の中心部へ。うだつを上げた町家が並ぶ町並みが壮観である。まだ9時過ぎなので、人影が全くないのも良い。
 海野宿は、宿場町開設以前は、海野郷や海野荘などと呼ばれ、東信濃の豪族滋野氏やその嫡流に当たる海野氏の領地として栄えていた。天正11年(1583年)、真田正幸が上田城城下町を形成するため、海野から上田に人を呼び寄せたため、海野集落は縮小され、宿場町の開設に至った。
 寛永2年(1625年)、江戸幕府によって、田中宿とともに、北国街道の宿場として設置された。宿場町は約6町(650m)にわたり街並みが続き、本陣1軒と脇本陣2軒が設けられ、佐渡の金の江戸までの輸送、善光寺までの参拝客や、北陸諸大名の参勤交代などで利用され、非常に賑わった。
 当時の景観が非常に良好に保存されているので、「日本の道100選」や「重要伝統的建造物群保存地区」に選定されている。

大屋神社 9:44

 海野宿を抜け、静かな間道となっている旧街道筋を西へ。上田市に入った。大屋駅前を通過すると、大屋神社が建つ。
 昔は神明宮と熊野大権現の本殿が二社並びに建てられていたとのことで熊野社と呼ばれていた。二社とも明治時代の火事で燃えてしまったため、新たに現在の本殿一棟を建て直したとのこと。
 お社に小舟が掲げられていて、日清、日露戦争で大活躍した海軍の伊東祐亨、東郷平八郎、上村彦之丞の3将軍が上田に立ち寄り、千曲川簗漁場を案内した時に乗った舟を祀っているらしい。

上田市岩下辺りの景色 9:56

 大屋神社からさらに西へ。車の少ない静かな間道歩きが続く。
 岩下という集落辺りは、耕作地が広がり、誠に長閑な光景が広がっている。

伊波保神社 10:05

 岩下集落の中ほどに建つ伊波保神社。
 伊波保神社の創建は不詳。元和3年(1617年)の水害を受け、現地に遷宮したとのこと。
 明治13年(1879年)、岩下村諏訪宮から伊波保神社に改称した。
 上田出身の彫り物師、竹内八十吉の作と伝わる彫り物が本殿に施されている。

太鼓岩 10:08

 岩下集落では、千曲川のすぐ北側を進む。
 千曲川の真ん中に直径数十mの丸型の巨大な岩がある。対岸にある小牧山の火山活動の名残だと言われており、川の流れが岩に当たる音が太鼓の音のようだということから太鼓岩と呼ばれたらしい。
 昭和15年頃は、この岩と右岸との間に吊り橋が架けられていたらしく、現在でも 太鼓岩と右岸の両方に、その支柱が残っている。
 太鼓岩を過ぎ、しばらく新幹線と並走し、北に進路を変え、R141を横断、西に変針すると「踏入」という地区に入った。国府の地に「踏み入る」ことが地名の由来である。信大の繊維学部の前に枡形跡があり、西の枡形まで進んだところに科野大宮社が鎮座する。

科野大宮社 10:50

 科野大宮社の創建は社伝によれば、崇神天皇の御世の頃という。
 信濃国府は古来上田市のこの辺りにあったとされている。
 真田氏による上田城築城以来、当社は城の鎮守と定められ、信濃国分寺三重塔と当社は藩費をもって修繕したという。
 寛文9年(1669年)頃の城下町古地図には「常田村大宮」と記載されている。明治に入り、近代社格制度においては県社に列し、社名を現在の「科野大宮社」に改めた。

常田毘沙門堂 10:55

 科野大宮社から少し西に進んだところに毘沙門堂が建つ。
 文政12年(1829年)頃、「活文禅師」という学識の豊かな和尚さんがこのお堂に移ってきて、お堂の脇に寺小屋を開き多聞庵と名付けた。
 活文の名声は以前から広く行き渡っていたいたことから、武士をはじめ農民や商人それに子供にいたるまで教えを受けたい人たちが殺到し、一時は1000人を越すほどだったという。
 活文は、教えを受けたい人に対しては誰にでも親切に接し、年齢や学力に応じた教え方をしたといわれ、教え子の中には、幕末から明治にかけて活躍をした佐久間象山・赤松小三郎(幕末の洋学者・議会政治の提唱者)・高井鴻山(儒学者・浮世絵師)・竹内八十吉(彫り物師)などの人物がいた。
 現在のお堂は、大正15年(1926年)の再建で、活文の史跡と遺徳を後世に末永く伝えるため、昭和3年(1928年)、お堂の前に活文の追福の碑が上田市長などが中心になり建立された。
 本日の街道歩きはここらで終了。上田駅へ向かう。

参考タイム

4/30しなの鉄道小諸駅 6:308:00 力士雷電の碑(滋野) 8:008:50 しなの鉄道田中駅 8:509:15 海野宿跡 9:159:40 しなの鉄道大屋駅 9:4010:50 科野大宮社 10:5011:05 JR上田駅

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