−「鮭・酒・人情(なさけ)が染みるまち」村上を7年振りに再訪−
山行概要
2023年10月25日(水) | |
村上市街 | |
晴れ | |
単独 | |
村上市郷土資料館(おしゃぎり会館)=0:20=イヨボヤ会館=0:20=千年鮭きっかわ=0:05=村上市郷土資料館(おしゃぎり会館)=0:10=浄念寺=0:10=村上市郷土資料館(おしゃぎり会館)【1:05】 |
記録文(写真はクリックで拡大)
村上市郷土資料館(おしゃぎり会館)周辺に集積する文化財建築の見学からスタート!
まずは若林家住宅に入ってみる。
住宅内から庭園を望む。村上らしく、「塩引き鮭」が、軒下に吊るされていた。
若林家は、江戸中期から幕末まで村上藩主を務めた内藤家の家臣で、内藤家中の中級上位の藩士として、大目付、長柄奉行(槍部隊の長)、普請奉行、町奉行、三条奉行などの要職に就いていた。
天明7年(1787年)の「越後村上分限帳」には、筆頭家老から12番目の地位で、150石を給され、18人の足軽を指揮していた記録が残っている。
若林家住宅は、18世紀の末頃に建築された茅葺の武家住宅で、以降、明治期まで、村上藩士・若林家とその子孫の生活の舞台であった建物である。
曲屋造りの茅葺平屋建で、部屋割りも細かく、典型的な中級武家住宅の特色を伝えており、国の重要文化財に指定されている。
若林家住宅の北隣には、展示室や会議室として使用されている、三の丸記念館が建つ。
三の丸記念館は、明治40年(1907年)に村上銀行本店として建築されたものを保存・活用しており、村上銀行は、明治11年(1878年)に国立銀行として誕生した「村上第71国立銀行」の業務を引き継ぎ、発足したことから、鬼瓦には図案化された「七十一」の文字が刻まれている。
昭和57年(1982年)まで、現在の第四銀行村上支店の場所で店舗として活用されていたが、銀行の改築に伴い、明治末期の貴重な建築物の保存の為、曳家により現地に移転された。
「おしゃぎり会館」を出て、西方に進んで行く。
小町にある「千年鮭きっかわ井筒屋」さんを覗いてみるが、既に売り切れで営業は終了していた… さすがの人気店。
寛永3年(1626年)、米問屋として創業し、現在は鮭食品の販売を行っている「千年鮭 きっかわ」さんが、平成30年(2017年)に創業した、村上初の鮭料理専門店である。
西側に伸びる路地に入ると、黒塀が続く、趣のある通りがある。
寺町へ抜ける小路で、通りに安善寺があることから、「安善(あんぜん)小路」と呼ばれている。
画像は、村上信用金庫本店の裏側辺りで、黒塀が印象的だ。このため、黒塀小路(黒塀通り)と呼ばれることもあるが、これは景観整備の一環で黒塀を設置したもので最近のことである
村上信金金庫本店辺りは堀氏時代(村上藩第3〜5代藩主(元和4年(1618年)〜寛永19年(1642年)。無嗣断絶))の絵図には「馬ヤ町」の記載があり、「お馬や小路」と呼ばれていた。
安善寺辺りの安善小路。安善寺は浄土真宗大谷派で、明暦元年(1655年)の創建。寺伝によると、土地を村上藩第8、9代藩主の榊原家(寛文7年(1667年)〜宝永元年(1704年))から拝領したものとある。
村上でダントツナンバー1評価の「割烹 新多久」さん辺りの安善小路。今回、残念ながら予約は取れず。次回チャレンジしたいです。
「割烹 新多久」さんの辻を右折し、北へ塩町に入る。先ほど車で来た「喜びラーメン 小太喜屋」さんの前を通ると、安泰寺がある。
安泰寺は、内藤弌信(かずのぶ)が、享保5年(1720年)に田中藩(現在の静岡県藤枝市)から村上に移封された際に、同時に移転し、藩主の学問所であったという。
戊辰戦争において、村上藩が官軍に敵対した責めを一身に負った、家老・鳥居三十郎が切腹したのが菩提寺であるこの安泰寺で、辞世の歌は「淡雪と 共にわが身は消ゆるとも 千代萬代に 名をぞ残さむ」であった。この縁か、明治期には句会が多く開かれ、境内には句碑も多く残っている。
北に進み、県道3号線に合流。「塩町」交差点で県道を北に渡り、「イヨボヤ会館」のある鮭公園へ。
「イヨボヤ」とは、村上の方言で鮭のことで、「イヨボヤ会館」は、日本で最初の鮭の博物館で、市内を流れる三面川のサケに関する歴史や文化などを知ることができる。
7年前にも訪れたのだが、その時にけっこう感動したので、再訪することにしたのだ。
おしゃぎり会館等との4館共通券(1000円)を買っておいた。
「イヨボヤ会館」の地下には、鮭が遡上してくる三面川の分流「種川」に面した10箇所の観察窓があり、自然のままに「観る」ことができる。
折しも鮭の遡上の最盛期だが、今年は遅れているらしく、1匹しか見ることができなかった… 残念…
「イヨボヤ会館」から中心部に戻ってきた。「上町」から「大町」にかけては古民家が並び、情緒たっぷり。
物見櫓のある古民家は、「田村酒店」さんで、大正3年(1914年)の創業とのこと。
大町に入ると古民家の中に「千年鮭 きっかわ」さんがある。「きっかわ」さんは、寛永3年(1626年)に米問屋として創業、江戸時代の末期からは造り酒屋を営んでいたが、戦後の昭和30年代になり、村上から消えかけようとしていた鮭料理を絶やしてはならぬと、大きく方針を変え、村上で初めて鮭料理を製品として製造販売する店として生まれ変わった。
「きっかわ」さんは、方々で鮭料理の講習会を開くなど、鮭料理の普及にも努めた結果、昭和50年代になると、村上では鮭製品を作る店が増えはじめ、割烹など料理屋では鮭料理が秋の定番メニューになった。今でこそ村上は、鮭料理の町と言われるようになっているが、全く無名の時から、「村上の鮭文化は日本一」と訴え続け、村上の鮭料理を世の中から注目されるようにしたのは14代目吉川哲C氏であり、現在は15代目が当主を務めている。
町家造りの「きっかわ」さんの奥の部屋には、常時千尾以上の鮭が吊るされており、インスタ映えが尋常ではない(笑)
私もお土産に「鮭の酒びたし」を購入。「鮭の酒びたし」とは、塩引鮭と並ぶ村上自慢の鮭料理で、塩引鮭を自然の風で1年かけてゆっくりと熟成させ、薄くスライスしたもので、旨みが凝縮され「越後村上が生んだ味の芸術品」と評されている。
「おしゃぎり会館」に戻ってきたが、重要文化財の本堂を持つ浄念寺に寄るのを失念してたので、また中心街へ戻る。
まちの東端にある村上城跡。続日本100名城にも名を連ねているが、7年前にも訪れたので、今回は割愛した。
「臥牛山」は読んで字の通り、牛が寝そべっているように見える。
浄念寺は、先ほどの安善小路のすぐ近くにあった。
浄念寺は、明応年間(1492−1501年)、浄念という僧侶が草庵を結んだのが起源である。
その後、村上藩の歴代藩主が菩提寺としてきており、中でも有名なのは、徳川家宣・家継の側用人を務め、新井白石とともに正徳の治を断行した間部詮房(享保2年(1717年)から村上藩主)で、境内には詮房の墓がある。間部家は後に鯖江藩に転封となったが、間部家の祖である詮房のため、毎年のように法要を行い、金品を寄進したという。
本堂は、文化15年(1818年)、詮房の百回忌に合わせて、江戸で設計され、村上の大工の手で建築されたもので、この地方では珍しい白壁土蔵造の?葺き屋根である。そして、丈六(約5m)にも及ぶ阿弥陀如来像を安置するため、棟木の高さが35尺にもなり、それにふさわしく梁間9間・桁間11間、2階部分もそれぞれ6間・9間という大きさで、日本で一番大きな白壁土蔵造の本堂であり、国の重要文化財に指定されている。
また、当寺には、「おくのほそ道」の旅で松尾芭蕉も訪れている。
「おしゃぎり会館」にまた戻り、中を見学し、村上市街探索終了〜
参考タイム
10/25 | おしゃぎり会館 13:00 ⇒ 13:20 イヨボヤ会館 13:35 ⇒ 13:55 千年鮭きっかわ 14:00 ⇒ 14:05 おしゃぎり会館 14:05 ⇒ 14:15 浄念寺 14:20 ⇒ 14:30 おしゃぎり会館 |
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