−令和5年は、名古屋の街歩きでスタート! 何故か牛丼チェーンで昼呑み(笑)−
山行概要
2023年1月1日(祝) | |
名古屋市街 | |
晴れ時々曇り | |
単独 | |
JR名古屋駅=0:50=名古屋東照宮・那古野神社=0:05=愛知縣護國神社=0:15=名古屋城正門前=0:25=五條橋=0:25=円頓寺商店街【2:00】 |
記録文(写真はクリックで拡大)
JR名古屋駅の桜通口からスタート! まずは名駅通を南に進んで行く。高層ビルが林立し、京都とはえらい違いだ。
下広井町交差点を左折し、南東方向に斜めに2区画分進んで、また左折し、北に少し進むと、劇団四季の名古屋四季劇場が現れる。
ひと際目立つ建物。名古屋地区における劇団四季の劇場は平成8年(1996年)から20年間、栄にあった新名古屋ミュージカル劇場であったが、同劇場の土地と所有を東陽倉庫に戻すことになったことと同時に、名古屋駅周辺の再開発地点のひとつである名駅南に新劇場を建設することになった。
鉄骨地上3階、地下1階建で、客席数は1200席。こけら落としは、平成28年(2016年)10月16日からの「リトルマーメイド」であった。
四季劇場の角を左折し、すぐに右折し、三蔵通と呼ばれる通りを東へ進む。
堀川に突き当たるので、天王崎橋を渡って左折し、堀川沿いの遊歩道を進んで行くと、納屋橋の手前に、納屋橋掘割跡を示す案内板が立つ。
明治40年(1907年)、名古屋港が開港し、諸外国との貿易が始まると、堀川の水運を利用し、輸出入品を積み下ろす拠点として、納屋橋河畔にT字型の掘割が掘削された。水路は石組の堅牢なもので、昭和20年(1945年)の名古屋大空襲で倉庫が破壊されるまで活用されたらしい。
納屋橋で右折し、広小路通を東進。伏見通との交差点で左折し、今度は伏見通を北進。さらに日銀の名古屋支店のある桜通との交差点で右折し、東進し、2つ先の辻を左折し、長島町通を北進する。あみだくじ状態(笑)
外堀通の手前に、名古屋東照宮・那古野神社が並んで鎮座する。この辺りは、4年前に東海の城巡りをやって以来の再訪だ。
名古屋東照宮から参拝する。今年の初詣だ。
名古屋東照宮は、尾張藩初代藩主徳川義直が、父家康の三回忌である元和4年(1618年)に大祭を行い、翌元和5年(1619年)、名古屋城三の丸に鎮座する亀尾天王社(現那古野神社)の西隣に東照宮を勧請し、南天坊天海を導師とし、同年9月17日家康の神像を祀ったのが創祀である。当初は三之丸東照宮とも呼ばれていた。
創建当時の境内は3600坪もあり、本殿は権現造で楼門、唐門、渡殿、祭文殿等があり、極彩色で彩られ、東照宮としては当時最も豪華であったといわれていた。
昭和20年(1945年)5月14日の名古屋大空襲により、義直以来の本殿を含む主要建造物が焼失するが、昭和28年(1953年)に再興された。
続いて、隣の那古野神社へ。
那古野神社の創建は、延喜11年(911年)3月16日、醍醐天皇の勅命で若宮八幡社の隣に建立されたと伝わる。
戦災で何度か焼失するも、その都度再建され、慶長15年(1610年)、家康によって名古屋城の築城が計画され、当社が名古屋城内にすっぽりと入ってしまうため、家康が御神籤でもって神意を伺ったところ、遷座不可と出たため、そのままの場所に止め置かれることになり、結果として三の丸に鎮座することになり、名古屋城の総鎮守、名古屋の氏神として祀られた。
名古屋東照宮と同様、大空襲で焼失したが、昭和34年(1959年)には大方再建された。
北側の外堀通を渡り、名古屋城三の丸の内部に侵入する。
愛知縣護國神社にも立ち寄る。
愛知縣護國神社は、明治元年(1868年)、尾張藩主徳川慶勝が、戊辰戦争で戦死した藩士ら25人の霊を現在の昭和区の川名山に祀り、翌年に「旌忠社」として祠を建てたのに始まる。
昭和10年(1935年)に現地に遷座し、昭和14年(1939年)、愛知縣護國神社に改称した。
当社も名古屋大空襲で焼失したが、昭和33年(1958年)に再建された。
名古屋城正門前に移動するが、めっちゃ人が並んでいて、並ぶのがめっちゃ嫌いな私は登城をあっさり断念(笑) まぁ4年前にも来ましたし…
仕方がないので、南西方向へ移動し、四間道(しけみち)を目指す。
五條橋に出た。五条橋は、かつて清洲城下の五条川に架けられていた橋を、慶長15年(1610年)から始まった「清洲越し」の際に、この地に移築したもの。このため五条橋の擬宝珠には、堀川が開削された慶長15年より古い慶長7年(1602年)の銘が確認できる。
ちなみに堀川は、慶長15年(1610年)の名古屋城築城と同時期に、家康の命令で当時広島藩主だった福島正則によって開削された運河で、築城に際し、船で大量の資材を運ぶことを目的に、城の西の堀留から熱田まで、長さ約6km、深さ1.8mを掘る大事業だった。堀川の完成で木曽の木材が大量に運び込まれるようになり、堀川沿いには木材問屋や木工職人が住み、やがて豪商の蔵が建ち並ぶようになったという。
五條橋を渡ると、辺りは一気にタイムスリップしたような光景が広がる。
古い町並みを南に進む。この通りを四間道(しけみち)といい、「清洲越し」に伴い、商人達がこの地に住み着いて作られた商人の城下町として始まり、最初の「名古屋」の街の誕生となった。元禄13年(1700年)の大火で1600軒余りが焼失し、その後尾張藩4代藩主徳川吉通は、堀川沿いにある商家の焼失を防ぐために、中橋から五条橋までの道幅を四間(約7m)に拡張したのが始まりであり、このことから四間道と呼ばれるようになったという。
また、延焼を防ぐ防火壁の機能を持たせるため、尾張藩が通りの東側は、石垣の上に土蔵を建てることを奨励したことから、土蔵造りの並ぶ街並みが形成されたとされている。
名古屋大空襲時において、この辺りは被害が比較的少なく破壊を免れた為、現在も多くの白壁の土蔵が連なり、2階に屋根神様が祀られている古い町屋も多く残っていることから、名古屋市の街並保存地区に指定されている。
いったん北に戻り、円頓寺(えんどうじ)商店街のアーケードに入り、西に進む。
円頓寺商店街は、大須などと並び、名古屋で最も古い商店街の一つと言われており、懐かしい光景が広がっている。
ちなみに、画像のお店はお洒落なスペインバルの「BAR DUFI」さん。
昨年の4月に訪れてます。画像はその時の昼呑みの様子(笑) 完全に仕上がってます。
正月で閑散としている円頓寺商店街から、円頓寺本町商店街を抜け、後は名古屋駅まで戻るだけ。
何とも軽い初歩きだった。
参考タイム
1/1 | JR名古屋駅 7:35 ⇒ 8:25 名古屋東照宮・那古野神社 8:30 ⇒ 8:35 愛知縣護國神社 8:35 ⇒ 8:50 名古屋城正門前 8:50 ⇒ 9:15 五條橋 9:15 ⇒ 9:40 JR名古屋駅 |
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