善光寺街道(北国街道)その1(追分分去れ〜小諸)

−善光寺街道歩きスタート! 徐々に本降りになる雨との競争に…−

   

山行概要

日 程
2022年4月29日(金(祝))
山 域
善光寺街道
天 気
曇り後雨
メンバー
単独
コースタイム
しなの鉄道信濃追分駅=0:25=追分分去れ=1:10=柵口神社・長泉寺=0:20=平原一里塚跡=0:25=「平原」交差点=0:40=北国街道与良館=0:10=小諸宿(そば七)=0:10=しなの鉄道小諸駅【3:20】

記録文(写真はクリックで拡大)

 まずは、中山道へ合流だ。信濃追分駅前から西に延びる県道を進む。歩道の無い1.5車線の道で、交通量もけっこうあるので、めっちゃ怖い。
 右にカーブし、Y字のところを左に入ると、ほぼ車の通行はなくなり、ほっと一息。別荘地帯の中をひたすら北西に進んで行くと、R18に出るが、これを横断し、さらに北に進むと中山道に合流する。

中山道追分宿跡 10:02

 中山道の追分宿は、35軒の旅籠に250人の飯盛りがいた。北国街道(善光寺街道)の追分も宿の西にあることから、大いに賑わったという。
 追分分去れ(おいわけわかされ)の辺りは、旧街道っぽく整備されている。道の左右にはおしゃれな店も並ぶ。しかし、ワザとらし過ぎて私の好みではありません(笑)

追分分去れ 10:10

 中山道をしばらく西に進むと、R18に合流する。すぐその先が「追分分去れ」で、様々な石塔、石仏が建っている。
 北国街道(善光寺街道)と中山道の分岐で、北国街道は右に入る。
 その昔長旅の途中で親しくなった旅人同士が、別の行く先を前に別れを惜しみともに袂を分けて旅を続けたといわれるのがその名の由来。
 右手の細道を進むが、すぐにR18に吸収され、しばらく4kmほどの味気ない国道歩きが続く。
 御田代町に入る。この間、ゆるやかに下ってきたが、まだ標高929mもあるらしい。
 セブンイレブン西軽井沢店の手前で、ようやく国道歩きから解放。旧街道筋を歩く。

高山家住宅 11:16

 この辺り馬瀬口という集落で、追分宿と小諸宿の距離が長いため、元和6年(1620年)、開村され、間宿の役割を果たした。
 古い街並みが続くが、ひと際立派な長屋門を持つ大家が街道北側に目に入る。これが高山家住宅で、門の前には「明治天皇馬瀬口御小休所碑」が立つ。明治11年(1878年)、明治天皇が東海・北陸二道を巡行された際に、御休息所となったところらしい。

柵口神社 11:20

 静かな集落の中を明らかに旧街道と分かる道を西へ進む。街道北側の少し離れたところに柵口(ませぐち)神社があったので、立ち寄る。
 柵口神社は、馬瀬口村の守り神、産土神(うぶすながみ)であり、かつて、この辺りが浅間山麓に広がる牧場の柵の木戸があったことから、柵口神社と命名された。
 祭神は、盤長姫命(いわながひめ)で、妹の木花之佐久夜毘売(このはなのさくやびめ)に天孫の邇邇芸命(ににぎのみこと)が求婚した際、妹と一緒に盤長姫命も送り出されたが、あまりに醜かったので、追い返された方です(笑)

長泉寺の馬頭観音堂 11:23

 柵口神社の南隣には長泉寺が建つ。
 長泉寺は、元和年間(1615−24年)に創建されたと伝わり、かつては春彼岸の中日に寺に伝わる踊り念仏が行われたほか、5月には観音祭りが開かれ佐久地方の馬方や農家の人々で賑わったらしい。
 寛永16年(1639年)に焼失し、現存する堂宇は宝暦4年(1754年)に僧奠津が再建したものといわれている。
 境内北端に建つ馬頭観音堂。馬の石像もありました。

白山神社(馬瀬口) 11:26

 長泉寺を後に、街道北側の細い路地を入って行くと馬瀬口の白山神社。境内はピンクの花に包まれていた。社殿内には稲荷社等が祀られている。

平原一里塚跡 11:45

 長泉寺の少し西でまたR18に合流。小諸市に入った。標高780mとの表示が… 徐々に下ってはきている。
 左にカーブしながら、南西に進む。この辺りからついに雨がちらついてきた…
 国道を2km余り進むと「平原東」の交差点で、ここで左手に分かれる旧街道に入る。
 旧街道に入ってすぐ左手に、平原の「一里塚跡」の標柱が立っている。江戸日本橋から数えて41里目の一里塚とのこと。
 また、一里塚の横には、寛政5年(1793年)の銘が入った「馬頭観音」が立っている。

金山宮 11:48

 一里塚のすぐ先の街道北側には金山宮があったので、ここも寄り道。
 平原集落は、追分と小諸の間の宿だったが、宿が形成された頃、この神社だけが南側に取り残されてしまい、その後、悪病が流行したことから、祟りを畏れて、寛永年間(1624−44年)に現在地に移されたという。

光明寺 11:58

 さらに街道を西に進むと、街道北側に入ったところに光明寺が建つ。
 天正8年(1580年)の創建の古刹である。隣には薬師堂があり、薬師如来を祀っている。

白山神社(平原) 12:03

 平原集落にも白山神社が鎮座する。境内には、稲荷神社の他、寛政10年(1798年)の銘の石像等が立つ。
 ゆるやかに坂道を下って行くと、「平原」の交差点で、南から進んでくるR141をアンダーパスで通過。しばらくR18、141の重複区間の国道を西に進み、「四ツ谷東」の交差点で、右にR18を分け、左手のR141を進む。

小諸城「銭蔵」 12:58

 しばらく国道を進み、「四ツ谷」交差点で国道を離れ、南脇の旧道を進む。雨がさらに強くなってきた。
 国道に再合流し、しばらく進むと「唐松」交差点があり、ここの東にある「ツルヤ」さんの駐車場で、たまらず雨具の下を装着。本降りだ…
 「唐松」交差点で3方向に分岐するが、北国街道は真ん中を進む。やがて小諸宿に入ってきた。
 旧家が建ち並ぶようになり、その中の一つが、「北国街道与良館」。与良館は街道沿いの旧松屋(江戸時代は漆器屋で、その後家具問屋)を整備した地域交流の拠点施設であり、敷地内には様々な遺構が復元・整備されており、この「銭蔵」もその一つ。
 享保11年(1726年)、小諸藩の御用金蔵として、小諸城内に建築されたが、明治期になり、他の建造物とともに入札払い下げとなり、民間所有としてこの地に移築された。

「山吹味噌」の看板を掲げる信州味噌株式会社 13:06

 続いて、街道南側に「山吹味噌」の看板が…
 信州味噌株式会社の社屋で、江戸中期の延宝2年(1674年)、酢久(すきゅう)商店として創業し、小諸の地で酢・味噌醤油を醸造。関東から仕入れた畳表・鰹節・茶・塩などを長野県内に流す問屋業としても成功し、小諸藩の御用商人として、武士に近い身分を与えられた名家である。
 明治期になり、中興の祖、第12代の小山久左衛門正友は、味噌・酢・醤油の自社製品以外に鰹節や畳表などの取り扱いを広げ、明治33年(1900年)に合資会社酢久商店へと改組した。
 当時、信州の味噌は地元で消費される割合が多かったが、大正12(1923)年に発生した関東大震災の救援物資として、また第二次大戦後の廃墟となった東京へ送られ、復興の助けになったらしい。
 当社の味噌は、独特の明るい色から山吹の色に例えられ、元気がもらえると当時評判になり、昭和26年(1951年)、新たに信州味噌株式会社を立ち上げた際に、ブランド名を「山吹味噌」としている。

遅めのランチは「そば七」さん!@ 13:17

 いよいよ小諸宿の中心部だ。「荒町一丁目」の交差点を過ぎると、街道は左へ直角に曲がり、本町の町並みに入る。
 街道南側に、立派な玄関屋根を持つ建物が目に入る。これが脇本陣代だった町家で営業する信州そばの名店、「そば七」さんだ。
 少し遅いが、入店せざるを得ない(笑)
 エビスでスタート!

遅めのランチは「そば七」さん!A 13:28

 続いて、野沢菜のかき揚げ! 混雑時にはお断りさせていただきますとメニューに書いてあったが、無事発注できた(笑)
 すごいボリューム! お酒が進みます。

遅めのランチは「そば七」さん!B 13:39

 そして、メインの1日10食限定「手びきざる」大盛も無事にゲット! 日本酒にチェンジし、さらに昼から酒が進む(笑)…
 手びきざるは、石臼を機械でなく、手でゆっくり回転させることで、そば本来の香りを損なうことなく、また食物繊維を壊さずにそのままの風味を生かすことができるらしい。確かに香りが濃いですね。あっと言う間に完食。
 そば湯も濃くて、飲み干してしまいました(笑) 食べログでは、「店の人の愛想が悪い」っていう投稿が多かったが、全くそんな印象は受けませんでした。大満足で退店し、土砂降りの中を小諸駅へ。
 とりあえず1日目の北国街道歩きは無事終わった…

参考タイム

4/29しなの鉄道信濃追分駅 9:4510:10 追分分去れ 10:1010:45 セブンイレブン西軽井沢店 10:4511:20 柵口神社・長泉寺 11:2511:45 平原一里塚跡 11:4512:10 「平原」交差点 12:1012:50 北国街道与良館 13:0013:10 小諸宿(そば七) 14:0014:10 しなの鉄道小諸駅

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