備中高梁・岡山散策

−2日で5城を駆け巡った、岡山城巡りツアーの1日目! しかし、標高約430mの備中松山城本丸で落とし物をし、涙のWピストン…−

   
  

山行概要

日 程
2018年12月8日(土)
山 域
吉備高原・岡山市街
天 気
曇り時々晴れ
メンバー
単独
コースタイム
高梁市観光駐車場=0:10=牛麓舎跡=0:05=備中松山城登城口=0:20=鞴峠=0:15=大手門跡=0:05=二の丸=0:20=天神の丸跡=0:05=大池=0:15=臥牛山三角点=0:15=大松山城跡=0:10=本丸=0:10=鞴峠=0:15=備中松山城登城口=0:05=石火矢町武家屋敷(旧折井家・旧植原家)=0:15=高梁市観光駐車場【2:45】
岡山電気軌道柳川駅前(野田屋町)=0:25=岡山城跡=0:20=岡山電気軌道柳川駅前(一吉)【0:45】

記録文(写真はクリックで拡大)

 12/7 曇り

 金曜日の午後から休めそうだったので、しばらく訪れていない備中高梁に急に行きたくなった。14時には枚方を発進し、16時半には岡山駅のすぐ東のタイムズ野田屋町第3駐車場に到着。岡山駅まで徒歩5分ほどで、駐車料金24時間で900円と格安である。今日、明日と、ここを寝ぐらにするつもりだ(笑)
 早速、街中に繰り出す。食べログで見つけた「一吉」さんに突入!

今旅の初グルメは「一吉」さん!@ 16:49

 人気店みたいだが、始業が16時だったので、余裕で席を確保〜
 定石通り、ママカリの酢漬けで開幕〜 ママカリは「飯借り」と書き、「飯が進み、家で炊いた分を食べ切ってしまってもまだ足らず、隣の家から飯を借りてこなければならないほど旨い」に由来する呼称であるが、私は飯は食べないので、酒が進みます(笑)

今旅1食目は「一吉」さん!A 16:56

 カワハギが降臨! 肝もたっぷり!

今旅1食目は「一吉」さん!B 17:20

 暴走して、メバルの煮付けを(笑)…

今旅1食目は「一吉」さん!C 17:43

 あまりに酒が進むので、さらに暴走して、これまた岡山が誇る高級食材、黄ニラと地鶏炒めでフィニッシュ!
 そして駅前のサウナ「ハリウッド」さんに沈没し、ヨロヨロと車に戻り、そのまま車中泊と言う、不穏な1日目のスタート(笑)!

 
   

 12/8 曇り後晴れ一時雪

 頑張って5時に起床し、備中高梁へ出発。暗闇の中、吉備路を突き進む。途中、コンビニで朝食を取りつつ、高梁川沿いに快調に飛ばし、高梁には7時半頃に到着。
 高梁の街中は道が狭いので、中心部にある観光駐車場に止めようとしたら、何と営業は8時半からだった!
 ガボーンと思いながら良く見ると、駐車場はカラーコーンで囲っているだけなので、無理やり侵入し、止めさせてもらった(笑)
 身繕いをしてから駐車場を出発。物凄く寒い! 先週の敦賀とは雲泥の差だ! いかにも雪が降りそうな曇天… この状況下で、私は遥か山上の現存12天守の中で最も標高が高い備中松山城を目指すのだ…
 備中松山城は20年以上前に1度訪れたことはあるのだが、バスで安直に登ってしまっていたので、ここはやはり下から登らねば…

本町筋の町家 7:43

 観光駐車場から本町筋を北に進む。重厚な町家が数多く残っており、いきなりタイムスリップした気になる。
 高梁川に流れ込む小高下川に当たると、右折し、川沿いに東へ登って行く。この辺り、高梁日新高校、県立高梁高校と高校が並んでいる。

牛麓舎跡 7:50

 住居が尽きる辺りに、石碑と案内板が立っており、牛麓舎(ぎゅうろくしゃ)跡とある。
 牛麓舎は、備中松山藩の財政を立て直し、幕末の混乱時には藩を滅亡から救った、山田方谷が備中松山藩の藩校「有終館」学頭(校長)として藩から与えられた邸宅で、方谷は、天保9年(1838年)、ここに私塾も開いたが、臥牛山の南の山麓に位置していたことから「牛麓舎」と名付けられた。
 方谷を慕って入門するものが後を絶たず、儒学者の進鴻渓や後に備中松山藩の家老となる大石隼雄(はやお)、明治三大文宗の一人で、二松學舍大学の前身となる漢学塾二松學舍の創立者となる三島中洲など、多くの優秀な人材を輩出した。

備中松山城登城口 7:55

 牛麓舎跡からさらに川沿いに少し登ると、備中松山城の登城口を示す道標が現れ、左折して細道を登って行くと、小平地に方谷の弟子であった三島中洲の居宅、虎口渓舎(ここうけいしゃ)跡を示す標識が立っている。
 中洲は、師匠の方谷と同じく、「有終館」学頭に招かれた際、この地に与えられた居宅を虎口渓舎と名付け、念願の漢学塾を開いたという。
 虎口渓舎跡の少し先から、松山城跡への登路が林の中に伸びており、ここから山登りとなる。

知りませんでした… 8:00

 登路は良く整備されており、何の問題もないが、ここはサルの生息地のようで、それだけが気になる。しかし、天然記念物とは…
 結果として、1匹も見ることなく、8合目の鞴(ふいご)峠まで一気に20分程で攻略〜
 鞴峠には、小型バスが回転可能な駐車スペースがあり、ここまでシャトルバスかタクシーで歩かずに来ることができる。  しかし、ここでも標高300m前後であり、本丸まではまだ100mを優に超える標高差があるのだが、歩くしかないのだ…

中太鼓丸櫓跡から高梁市街を見下ろす 8:25

 鞴峠から本丸へのルートは、観光客も歩くためか、峠までの登山道とは違い、簡易舗装やコンクリの道で完璧に整備されている。が、急だ… 普通の観光客には酷だろう…
 本丸への途中には、中太鼓丸櫓跡があり、高梁市内を見下ろすことができる。かつてここには連絡用の太鼓を打ち鳴らす櫓が建っていたらしい。

大手門跡 8:30

 さらに急な石段を登って行くと、ついに大手門跡の前に出た。
 見事な桝形で、実際に門構えが残っていたら、相当な威圧感があると思われる。

城内から大手門跡を見下ろす 8:31

 いよいよ城内に侵入。大手門跡を振り返ってみると、大手門の上には天然の切り立った岩盤があり、さらにその上に石垣が積まれ、上部の厩曲を構成するという、非常に強固な造りになっている。
 三の丸から二の丸へと一気に駆け上がる。

二の丸からの天守 8:35

 ついに現存天守が姿を現した。本丸への侵入を許さじと、それぞれ復元された「六の平櫓」(左)、「五の平櫓」が並ぶ。
 まだ天守の営業時間ではないのと、最終目的地は、このさらに奥にある峰続きの臥牛山の478.3m三角点なので、先へ進むことに。
 実は、備中松山城は、複数のピークからなる臥牛山に時代ごとに別々に築かれた城であり、一番有名なこの現存天守がある城跡は、小松山と呼ばれる山の山頂を削って築かれたもので、中世に既に築かれた城を、近世になって大改修した部分であり、小松山城跡と呼ばれている。

二重櫓 8:41

 本丸下の東側を北に進み、本丸の北側へ回り込んでみると、北側を防御する二重櫓が現れる。
 ここも天然の岩盤の上に石垣を築いてから建築された強固な造りだ。天守と同様、この櫓も国指定の重要文化財である。
 ここから北方向に臥牛山の峰々に続く登山道が続いており、いったん鞍部に下る。
 鞍部は、相畑城戸跡(あいはたのきとあと)と呼ばれる小平地になっており、中世から整備されていたらしく、備中松山城全体で土塁が確認できるのはここだけらしい。また、昭和30年代までここには人家があったとのこと。凄い山奥ですけど…
 登り返すと、天神の丸跡に到着。

天神の丸跡 8:55

 天神の丸は、臥牛山の最高峰である天神丸山480mに築かれた中世の城郭で、本丸と出丸を分ける堀切跡がよく残っている。
 天正2年(1574年)から3年(1575年)にかけて、備中一円で起こった備中兵乱(この辺りを当時支配していた三村元親と、侵攻してきた毛利氏との戦いで、天神の丸をはじめ松山城は落城し、三村氏も滅亡した)において、備中松山城で最初に陥落した部分と言われている。
 最高部には、江戸時代まで「天神社」と呼ばれる神社があり、城主の信仰を受けていたと考えられている。

大池 9:00

 天神の丸跡から、また下ると、大松山との鞍部で、大松山城跡への分岐が分かれるが、帰りに寄ることにし、鞍部から右下に下ってすぐの大池へ。
 大池は、かつては「血の池」とも呼ばれており、刀を洗った池という言い伝えも残っているとのこと。これだけの標高を誇る山城では貴重な水場であり、そのせいか、池の周囲全体が石垣で囲まれ、補強されている。

立派な吊り橋 9:04

 大池から下り、切通及び番所跡を過ぎると、目の前が大きく開け、臥牛山三角点との大きな弛みとの間に吊り橋が架かっていた。橋がなければ、大きく下り登りをしなければいけないところなので、これは助かる。

吊り橋を振り返る 9:07

 結構な高さの吊り橋を渡り切り、稜線沿いに三角点を目指そうとしたが、踏み跡を発見できず、仕方なく、吊り橋から続く林道を進む。
 林道は三角点の南側から東側をゆるやかに登りながら続いており、左手に三角点への登路がないか見ながら進んだが、見つからないまま、三角点のほぼ北側まで回り込んでみると、踏み跡を発見したので、突撃する。

臥牛山三角点 9:15

 植林帯の中の、何の変哲もない地味なピーク。しかし私は三角点を踏めて満足だった…
 三角点から南方向に踏み跡が続いており、「これは、吊り橋を渡ったところで見落とした踏み跡だな」と判断して下り始め、見込み通り、吊り橋を見下ろす位置まで降りてきたが、踏み跡は吊り橋を横目に、さらに下り続ける。どうも吊り橋で渡った深い弛みの底まで下ってしまうようだ。もうだいぶ下ってしまったが「こりゃたまらん」と三角点までヒーヒー言いながら登り返す。5分ほどロスしてしまった。
 来た道を戻り、吊り橋から大池へ戻ってきた。復路ではここからすぐ隣の大松山城跡に立ち寄ってみる。

大松山城跡 9:35

 大松山城跡は、臥牛山で最初に城が築かれた場所で、鎌倉時代から既に存在していたらしい。中世の城郭としてはかなり大規模なもので、大松山の山頂部一帯に、7段にわたる曲輪や堀切が残っている。
 満足して、天守の建つ小松山城跡へ戻る。

本丸からの天守 10:03

 入城料を支払い、六の平櫓と五の平櫓の間を連結している南御門から、いよいよ本丸へ進入(どうも支払いの時にWIFIルーターを落としてしまっていたようである…)。
 不始末に全く気付いていない私は、「ついに本丸に入った!」と意気揚々である。現存天守12天守のうち、唯一山城に残っている天守が真正面だ。
 天守は層塔式で、外観では三重だが、実際には二層二階。高さは約11mで、現存天守の中では最も低い。
 天和3年(1683年)、水谷勝宗(みずのやかつむね、備中松山藩2代藩主)の大改修の際に現在の形になったといわれており、国指定の重要文化財である。
 満足して本丸を出る(この際、受付の人に「携帯ゲーム機落としてないか?」と聞かれたが、「オッサンがそんなん持ってる訳ないやろう」と半ば馬鹿にしながら、現物を確認することなく、下山してしまった…)。

石火屋町の武家屋敷(旧植原家) 10:44

 小雪が舞い出した中、快調に駆け下り、登城口に戻ってきた。小高下川に沿って下った最初の角を左折すると、武家屋敷の建ち並ぶ、石火矢町に入る。
 旧折井家と旧植原家が見学可能で、松山城との共通入場券を買っていたので、見学する。
 写真の旧植原家住宅は、江戸時代中期から後期にかけて、120石〜150石取りで、近習役や番頭役などを勤めた武士の住宅であり、松山城下の武家屋敷としては、寺院建築や数寄屋風の要素を取り入れた珍しい造りであり、市の重要文化財に指定されている。

 続いて、近くの頼久寺に向かおうと思った時に、スマホがWIFIを受信していないことに初めて気づき、慌てて観光駐車場に戻り、臥牛山5合目の城見橋公園駐車場に車を走らせ(マイカーはここまでしか上がれない)、シャトルバスに乗り込み、鞴峠から本丸を涙のピストン…
 しかし、受付のオッサンに事情を話すと、「すぐに落とし主が現れなかったので、5合目に降ろした」とのこと… 最悪… 憮然としながら鞴峠に駆け下り、またシャトルバスに揺られ(笑)、5合目の城見橋公園の管理棟で、さっきシャトルバスの往復切符を買った受付のおばちゃんに事情を話したら、「あっ、持ってるで! さっき言ってくれたら〜」のありがたいお言葉(笑)…
 1時間以上もロスしてしまった。何より急峻な山城のWピストンで、一気に疲れ果てた…

高梁基督教会堂 12:03

 疲れてはいたが、頼久寺庭園は是非とも見て行きたかったので、頼久寺にほど近い先ほどの武家屋敷の向かいに無料駐車場があったので、そこに車を止める。
 気が付けばもうお昼だ。先に昼食を取ることにし、紺屋川沿いに中心街へ向かう。
 すると川沿いに目立つ協会の姿が… 高梁基督教会堂と言うらしい。
 この教会は明治22年(1889年)の建築で、現存する岡山県下最古の教会で、県の史跡に指定されている。
 高梁でのキリスト教布教活動は、明治12年(1879年)から始められ、翌年に新島襄が高梁を訪れると急速に広がり、信者の浄財によってこの教会が建築された。
 県下初の女学校・順正女学校を創設した福西志計子氏らを輩出した教会である。

「五万石」さんの備中高梁インディアントマト焼そば! 12:26

 昼食は高梁の名物B級グルメのインディアントマト焼そばに決めていた。出している店舗は何軒かあるようだったが、上に載ってる卵焼きが決め手になって「五万石」さんに決めた(笑)。
 12時を少し回っての入店だったので、既に満席… あらためて先ほどの忘れ物が悔やまれるところであったが、回転の速い店なので、すぐに着席できた。
 すぐに焼き上がり、インパクトあるヴィジュアルの焼きそばがやって来た。
 昭和50年代、高梁周辺の学校給食にインディアン焼きそばが出ており子供たちに大人気だったらしい。そもそも「インディアン」焼きそばの意味が分からないが、カレー風味の焼きそばということらしい。これに高梁名産のトマトを加えて、新たに町おこしに使っているのだ。
 実食してみると、トマトが強烈過ぎて、カレー味はほとんどしなかった(笑)… それでもトマトの酸味が最高! 旨い! これで670円(笑)!

城塞のような頼久寺 12:44

 昼食後、頼久寺庭園へ。
 頼久寺の創建は不明だが、暦応2年(1339年)、足利尊氏が諸国に命じて建立させた安国寺の一つとして再興されたという。
 その後、寺運は衰えていたが、永正年間(1504年−1521年)、当時の松山城主、上野頼久が大檀越となり、再び再興された。大永元年(1521年)、頼久が逝去すると、その2文字を加え、寺号を安国頼久寺に改称したため、これが正式名である。

頼久寺庭園 12:56

 やはり一番の見物は、小堀遠州政一の作による頼久寺庭園である。
 たまたま作庭家で名高い、小堀遠州政一が、江戸の初めに15年ほど、ここ高梁を領国としていたのだが、当時の備中松山城は戦乱で荒廃していたため、、小堀遠州はこの頼久寺を仮の居館としていたのだ。
 この庭園は、蓬莱式枯山水庭園で、愛宕山を借景に白敷砂の中央に鶴島、後方に亀島の2つの低い築山状の島を置いて石を組み、書院左手の山畔に沿ってサツキの大刈込みで青海波を表現している。このような築庭様式は、安土桃山時代から江戸初期にかけて盛んだったもので、現在まで当時に近い状態で保存されているのは貴重であるとされ、昭和49年(1974年)に国の名勝に指定された。
 サツキの時期ではなかったが、冬の凛とした空気の中、静かに佇む庭園は本当に見事であった。

岡山城へ(帰路の撮影) 15:28

 高梁の散策を終了し、岡山市内へ戻る。昨日と同じくタイムズ野田屋町第3駐車場に車を止める。まだ14時半だったので、日は短いが、岡山城方面の散策に向かう。
 東に突き進み、旭川に突き当ると、岡山城の天守が見えてきた。見ての通り、最下層が歪(不等辺五角形)になっており、こんな例は消失した安土城天守くらいらしく、非常に珍しい構造らしい。

廊下門から城内へ 14:56

 廊下門から本丸の中段に進入。天守と同様、この門も空襲で焼けてしまい、戦後の再建である。
 広々とした中段は、表書院(藩庁)が建っており、政治の場であった。
 そして、不明(あかず)門から、本丸中の本丸である本段へ。

本段からの天守 14:59

 本段も広々としているが、ここには御殿が建っており、藩主の生活の場であった。
 こちら側(南)から見る天守は最下層の不等辺五角形を感じさせず、堂々たる4重6階の複合式望楼型天守である。
 別名の「烏城(うじょう)」の由来になった、黒漆塗の下見板が印象的だが、金ピカの鯱も存在感がある。
 戦前は国宝であったが、惜しくも戦災で焼失し、昭和41年(1966年)に再建された。エレベーター完備(笑)で6階建のうち、4階まで到達できる。

天守からの眺望 15:06

 天守内へ。各階の展示が充実しており、思わず見入ってしまう。映像解説コーナーでは、岡山出身の歴史家、磯田道史氏が登場していた。
 写真は5階から北側の後楽園方面を望んだもの。眺望も良いが、鯱がかっこ良すぎ!

月見櫓 15:25

 天守を出、中段に戻る。中段の北西角には隅櫓として、現存する月見櫓が建っている。
 岡山城を大幅に拡張させ、縄張りを完成させた、岡山藩二代目藩主の池田忠雄(ただかつ:池田輝政の三男)によって、江戸時代初期に建てられた2階建の櫓。写真のように城内側から見ると、3層に見える。
 2階の城内側は廻り縁側を設け、開け放しにする構造で、見通しが利き、名前のもとになったと思われる。
 岡山城跡では、西の丸の西手櫓とともに、2棟しか残っていない当時の建物の一つで、国指定の重要文化財である。

後楽園@(唯心山から沢ノ池を見下ろす) 15:36

 夕暮れになってきたが、後楽園にも立ち寄ることに。月見橋で旭川を渡り、南門から園内へ。
 ご存知日本三名園の一つ、後楽園は、岡山藩四代目藩主、池田綱政が岡山郡代官の津田永忠に命じて造らせたもので、貞享4年(1687年)に着工し、14年の歳月をかけ元禄13年(1700年)に完成した。岡山城や周辺の山々を借景とする池泉回遊式庭園である。
 唯心山は、綱政の子、継正が後に築いた築山で、園内が一望できる。

後楽園A(井田(せいでん)) 15:38

 当初の園内は綱政が田園風景を好んでいたため、田んぼや畑が多く配置されていたが、明和8年(1771年)に藩が財政難に見舞われ、当時の藩主、池田治政が経費節減のために芝生を植えさせ、次第に現在のような景観に変化していったらしい。

後楽園B(茶畑) 15:38

 茶畑もある。歴代藩主は、ここで作られたお茶を日々飲んでいたらしい。

後楽園C(千入(ちしお)の森) 15:42

 千入(ちしお)とは、「幾度も染める」という意味らしく、その名の通り、終わりかけだったが、紅葉が素晴らしい。

後楽園D 15:47

 沢ノ池越しに遥か岡山城天守を眺める。
 最後に藩主の居間であった延養亭を見てから、正門から退出し、駅前に戻った。

今宵も「一吉」さんへ!@ 16:16

 まだ16時過ぎだが、腹が減ってきたので、16時から営業している「一吉」さんにまた行ってしまう。
 今日もママカリの酢漬けでスタート!(笑)

今宵も「一吉」さんへ!A 16:21

 続いて、鰆の叩き! 字の通り、鰆は春先が旬だと思い込んでいたが、「一吉」の大将曰く、「冬の『寒ザワラ』が身が締まり、脂が乗って一番旨い」とのこと。
 確かに極旨だった。

今宵も「一吉」さんへ!B 16:21

 今日も黄ニラを… 今日はアナゴと柳川風で。

今宵も「一吉」さんへ!C 16:56

 最後はカマ焼きでフィニッシュ! すっかり「一吉」さんのファンになってしまいました…
 この日もサウナへのルーティンが炸裂!(笑) 「ハリウッド」さんに沈没してから車に戻ろうとするが、我慢できず、ラーメン屋に吸い込まれる(笑)…

〆は「らぁ麺 はんにゃ」さんへ! 20:28

 「らぁ麺 はんにゃ」さんへ入店。今年の5月にオープンしたばかりのようだが、食べログで既に高評価を得ているのだ。
 「醤油ラーメン」をチョイス。生姜が利いている。知らなかったが、新潟の長岡市では生姜醤油ラーメンが大人気になっているらしい。
 旨かった〜
 満足して車中泊へ。濃く長い1日だった。
 2日目(鬼ノ城・足守・津山散策)へ続く。

参考タイム

12/8高梁市観光駐車場 7:407:50 牛麓舎跡 7:507:55 備中松山城登城口 7:558:15 鞴峠 8:158:30 大手門跡 8:308:35 二の丸 8:358:55 天神の丸跡 8:559:00 大池 9:009:15 臥牛山三角点 9:209:35 大松山城跡 9:359:45 本丸 10:0510:15 鞴峠 10:1510:30 備中松山城登城口 10:3010:35 石火矢町武家屋敷(旧折井家・旧植原家) 10:5011:05 高梁市観光駐車場
岡山電気軌道柳川駅前(野田屋町) 14:3014:55 岡山城跡・後楽園 15:5016:10 岡山電気軌道柳川駅前(一吉)

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