鬼ノ城・足守・津山散策

−2日で5城を駆け巡った、岡山城巡りツアーの2日目! 「空中要塞」鬼ノ城は雄大でした…−

   
  

山行概要

日 程
2018年12月9日(日)
山 域
吉備高原・足守・津山市街
天 気
曇り時々晴れ
メンバー
単独
コースタイム
鬼ノ城ビジターセンター=0:10=西門跡=0:10=南門跡=0:10=東門跡=0:10=屏風折れの石垣=0:10=北門跡=0:10=礎石建物跡=0:10=鬼ノ城山=0:10=鬼ノ城ビジターセンター【1:20】
足守プラザ=0:10=緒方洪庵生誕地=0:10=足守陣屋跡・近水園・木下利玄の生家=0:05=旧足守藩侍屋敷=0:10=足守プラザ【0:35】
鶴山公園駐車場=0:15=本丸跡=0:10=鶴山公園駐車場【0:25】

記録文(写真はクリックで拡大)

 昨日の備中高梁・岡山散策に続く2日目。
 極寒だったが、何とか死なずに岡山駅前の駐車場で車中泊を終えた(笑)…
 今日はとりあえず行ったことのない、日本百名城の鬼ノ城と、足守の街歩きがメインターゲットで、後はその時の気分でという適当なものである。
 岡山を5時半には出発し、昨日と同様、途中のコンビニで朝食を取りながら、吉備路をR180で疾走する。JR桃太郎線の服部駅の辺りで右折し、総社市の砂川公園へ行き、公園の奥から伸びる細い車道を登って行くと、鬼ノ城ビジターセンターに到着。
 鬼ノ城は、百名城では珍しく古代の山城で、大和朝廷が白村江の戦いで唐・新羅連合軍に大敗した後、対馬〜畿内に至る要衝に様々な防御施設を築いたうちの一つで、史書に記載は無いが、発掘調査では7世紀の後半に築かれたとされている。
 すり鉢を伏せたような山容の鬼城山の切り立った外周部の7〜9合目辺りを石塁・土塁で囲み城壁化されており、平坦な頂上台地に建物を建てた遺構が残っており、山城に必要な設備がほぼ備わり、未完成の山城が多い中で、稀な古代山城とされている。

鬼ノ城ビジターセンターを出発 7:16

 ビジターセンターは休憩室と展示室がある他、広い駐車場も整備されている。が、9時が始業のため、当然ながら開いてない…
 ビジターセンター前から伸びる散策路に入る。最初の見所である西門跡までは、車いすでも通行可能なように整備されている。

展望台からの西門 7:20

 すぐに「学習広場」と名付けられた木製の展望デッキがあるので、立ち寄ってみる。
 けっこう離れているのに、西門が雄大だ。また、標高は300m程度だが、切り立っているせいか、高度感が凄い。

西門 7:27

 平成13年(2001年)から復元工事がスタートした鬼ノ城の西門は、正面3間(12.3m)、奥行2間(8.3m)の大規模な城門で、中央1間が開口する。12本柱で構成される堀立柱城門で、開口部の床面は大きな石を敷いており、その両側に6本の角柱が立つ。
 高さ13mもあり、さぞかし上からの展望が良さそうだが、残念ながら建築基準法などの法令によって登れないらしい。惜しい…
 しかし、1300年も前に、こんな高地に、こんな大きな城門を建設するとは… 古代人恐るべし!

敷石@ 7:30

 城内各地には、敷石と呼ばれる、板状の石を敷き詰めて通路状としたものが残っており、画像は西門の北東側に敷かれた箇所である。
 敷石は、城壁に沿って内側と外側の両方にあり、幅1.5mで通路というよりも、城壁が流水によって壊されることを防ぐための施設であるらしい。

敷石A 7:31

 西門を振り返る。中世・近代の城郭跡とは全く形容が異なるので、めっちゃ新鮮である。

水門跡 7:35

 城跡東側の断崖に沿って北東方向に進んでいくと、第0から1、2水門跡が現れる。画像は第1水門から第2水門を眺めたもの。
 鬼ノ城は、城内に4つの谷を抱えているため、谷水の排水処理が必要であり、6ヶ所に水門が設けられているのだ。
 水門は、外面の下部を石垣積み、上部は版築工法(土を建材に用い、強く突き固める工法で、堅固な土壁や建築物の基礎部分を徐々に高く構築する工法)による土積みで、背面は石垣積みである。通水溝は石垣最上部につくられており、これは他の古代山城にみられない鬼ノ城の水門の特徴である。

南門跡 7:40

 第2水門跡から東に進むと、南門跡に到着。
 南門は西門と同構造・同規模の12本柱からなる堀立柱城門である。
 この門の正面は断崖になっており、どうやって出入したのだろう…

高石垣跡からの展望 7:45

 南門跡と、この先の第3水門の間には、高石垣と呼ばれる、文字通り堅固な高い石垣が築かれており、この断崖で築かれていることも合わせると、圧倒的な防御力である。
 そして当然ながら、絶景が広がっている。

第4水門跡 7:48

 高石垣から北へ進むと第4水門跡。通水溝は欠失しているが、これは谷が大きく水量が多いため壊れたものであると推定されている。

東門跡 7:50

 東門は、鬼ノ城で最初に発掘調査がなされた城門跡である。開口部の床面を石敷きにしているのは、ほかの城門と同じだが、柱の数や種類は異なり、正面1間(3.3m),奥行2間(5.6m)の6本柱からなる掘立柱城門である。城内側には20×15mの一枚岩の巨岩が立ち。行く手を遮っている。

屏風折れの石垣 8:00

 第5水門跡の登り降りを挟んで、再び登ると、見晴らしの良い露岩帯に出た。ここが鬼ノ城の北東端に当たり、「屏風折れの石垣」と呼ばれている高みで、第2展望台とも呼ばれている場所だ。
 絶壁の突端で、雄大な展望が広がる。露岩の多い尾根の底には「血吸川」という恐ろしい名の川が流れている。吉備津彦命との戦いで傷ついた温羅(うら:古代に吉備に渡来し、製鉄技術をもたらして鬼ノ城を拠点として一帯を支配した)の血が流れて真っ赤になったとの伝承が残る。また、この辺りは昔から製鉄が盛んで、鉄分で川の水が赤かったことから、名の由来になったとも言われている。

北門跡 8:10

 屏風折れの石垣から城跡の北側の林の中をぐるっと反時計回りに進むと、北門跡に出た。
 一辺最大55cmの角柱を用いた掘立柱城門で、門に伴う柱が6本、正面1間、奥行2間ないし3間の城門で、東門と同様に、規模は西門、南門より小さい。

礎石建物跡 8:20

 北門跡から南へ、西門跡の方向へ戻るが、途中、左手に城内の中心部に向かうルートが分かれる。
 左折し、少し下っていくと、小平地が現れる。ここが礎石建物跡で、城内の中央部で7棟が確認されており、食品貯蔵庫ではないかと推定されている。

鬼ノ城山へ 8:28

 分岐に戻り、南に登って行くと、整備された園地のある高みに到着。ここが城内の最高所で、鬼ノ城山のピークである。復元された西門がすぐ下に見える。1時間で城内をぐるっと一周したことになる。

角楼跡からの西門跡 8:32

 ピークの少し南下には、角楼跡があり、石垣や見張り台のような部隊が復元されている。
 ここは、南北両方から入り込んだ谷の頭部にあたる背面側の要地で、正面側約13m、奥行側約4mが前方へ突出した長方形の張り出し部が、城壁に付設されている。

角楼跡から南西方向の展望 8:35

 張り出し部をもつこの遺構は、角楼と呼ばれ、背面からの攻撃に備えるとともに西門防備をも意図した櫓のような重要な防御施設と考えられる。なお、こういう角楼の存在は、日本の古代山城では鬼ノ城で初めて確認された。
 何とも見ごたえのある城探訪だった。大満足でビジターセンターに戻る。
 さぁ、まだ9時前だ。どこに行くか…
 JRの駅からまちの中心部が微妙に離れており、これまで行く機会のなかった足守が、鬼ノ城のすぐ足元に位置しているので、立ち寄ることに。

足守のまちなみ 9:12

 見ての通り、城下町の風景が現在も色濃く残っており、岡山県の町並み保存地区に指定されている。
 「足守プラザ」という交流施設が保存地区の南端に建っており、駐車場も整備されているので、ここに車を止めて、まちに繰り出す。
 町家の建ち並ぶメインストリートを一気に北に突っ切り、足守川を渡ると、緒方洪庵生誕地がある。

緒方洪庵生誕地 9:20

 緒方洪庵は、文化7年(1810年)7月14日にこの地で生まれた。地元の有志者による立派な記念碑が建っている。
 洪庵は、17歳のときに「武士の子は武士になれ」という父の願いに背いて、蘭方医への道を選び、足守を出ている。それだけに両親や故郷への思いは強かったようで、天保9年(1838年)、29歳の時に大坂で医師となり、同時に蘭学塾「適塾」を始め、それ以来、診療、著述、教育活動の多忙の中を、毎年一回は必ず足守に帰省し、藩主に招かれて足守除痘館を開くなど、故郷のために毎年働いていたらしい。

足守陣屋跡 9:30

 緒方洪庵生誕地から引き返し、再び足守川を渡ったところで右折し、北西に進んでいく。旧足守藩侍屋敷遺構はいったんスルーし、先に進むと、公園状に整備された一角に出る。ここは足守陣屋跡であるが、当時を示すのは標識のみである。
 足守藩は、慶長6年(1601年)、秀吉の正室北政所の兄、木下家定が姫路から備中に移封され、2万5千石を領したことに始まる。慶長13年(1608年)に家定が死ぬと幕府は遺領を子の勝俊と利房に分与するよう指示したが、勝俊がこれを独占したことから幕命違反を理由に翌年に領地を没収されてしまう。
 その後、足守藩は、浅野家の分家筋や、公儀御料となったりしたが、元和元年(1615年)に、木下利房が大坂の陣での功によりあらためて2万5千石で足守に入部し、木下氏の足守藩が復活し、その後は明治維新まで木下家が12代・256年間在封した。

近水園 9:32

 足守陣屋跡の奥には近水園(おみずえん)がある。
 近水園は藩主の庭園で、小堀遠州流の庭園が整備され、池畔には数寄屋造りの吟風閣が建ち、水面に影を映している。六代目藩主?定(きんさだ)が、京都御所の残材を持ち帰り、建てたといわれている。

木下利玄の生家 9:35

 近水園の南隣には、木下利玄の生家が残っている。
 木下利玄は、足守藩最後の藩主、木下利恭(としやす)を父にもつ歌人で、明治19年(1886年)にこの地で生まれた。
 利玄は、青年期から短歌革新運動に力を注ぎ白樺派の中心作家として活躍し、ついには口語、俗語なども大胆に取り入れた写実的で平易な「利玄調」の歌風を完成し、歌壇に新風を巻き起こすとともに、明治大正の文学史に大きな足跡を残した。
 荒壁の長屋門風の建物は、藩政期から続く木下家の残務整理のために大正時代に建てられたものである。敷地内にある土蔵の中からは秀吉、秀次の関白叙任状や秀吉直筆の古文書など貴重な資料が近年発見され、大きな話題となった。

旧足守藩侍屋敷 9:43

 来た道を戻るが、本通りに出る手前に、旧足守藩侍屋敷遺構があり、立ち寄る。
 この侍屋敷は、藩の国家老を務めた杉原家の居宅で、家老屋敷の佇まいをほぼ完全に近い形で残しているため、県の重要文化財に指定されている。
 屋根は茅葺の寄棟造(建築物の屋根形式の一つで、4方向に傾斜する屋根面をもつもの)の平屋建て。母屋の正面には唐破風の屋根を構えた玄関を設け、家老屋敷としての威厳を備えており、庭は池泉を主にした遠州流の小庭園も設けられている。
 写真は「一の間」で、付き書院の火灯窓が印象的だ。

葦守八幡宮 10:19

 足守プラザに戻り、車で少し離れた葦守八幡宮へ。宮前の道端に車を止めさせてもらい、境内へ。
 日本書紀には、応神天皇が帰省した妃の吉備兄媛を追って応神天皇22年(291年)9月に行幸し、葉田葦守宮で兄媛とその兄・御友別命に饗応を受けたと記されている。御友別命はこの行幸地に天皇の死後、この地に祭祀し葉田葦守宮を設けたというのが、葦守八幡宮の始めであるとされている。
 慶長12年(1607年)、豊臣秀頼は、足守藩主木下家が豊臣家の姻戚であることから、青銅鏡を豊臣家再興を願って寄進したが、これが現在の御神体である。そして、江戸時代を通じ、足守藩の総鎮守となり、木下家の産土神とした。
 現在の本殿は明治3年(1870年)の再建だが、石鳥居は、南北朝時代の康安元年(1361年)に建造されたことを記す刻銘が、正面向かって右の柱に残っており、建造年が特定される鳥居としては日本最古のものであり、国指定の重要文化財である(写真を撮るのを忘れた…)。

備中高松城へ 10:39

 足守の探索を終え、今度は備中高松城に向かう。27年ほど前にも行ったことはあるが、記憶は遥か彼方である…
 城跡は園地化されており、車で本丸近くまで容易に接近できる。
 本丸の背後の沼は、二ノ丸との間にあり、昭和57年(1982年)に岡山市が沼の復元をしたところ、土中に眠っていた蓮が再び芽を吹き、花が咲いたらしい。実に400年ぶりに蘇ったこの蓮を、地元では「宗治蓮」と名付け、毎年7月下旬の見頃を楽しみにしているという。

清水宗治の首塚 10:43

 首塚は、清水宗治の切腹後に秀吉によりつくられた供養塔が元になっており、当初は首実検をした黒田官兵衛の陣があった石井山に安置されていたが、明治期に本丸があった場所に移されたとのこと。
 余りに有名な秀吉の水攻めにあった宗治は、自らの命を条件に城兵を助命する講和を結び、信長の死を知らぬまま、天正10年(1582年)6月4日、兄の月清入道や弟の難波伝兵衛、援将の末近信賀らとともに、水上の舟において切腹した。享年46際。
 辞世は「浮世をば 今こそ渡れ 武士(もののふ)の 名を高松の 苔に残して」… 後に秀吉は小早川隆景に会うとこの話を持ち出し、「すばらしい武士であった」と宗治を讃えたという。

津山市街地中心部のシャッター通り(失礼!) 12:55

 最後は、少し回り道になるが、中国道で帰るとなると途中にある津山に向かい、津山城を見て帰ることに。
 県道241から県道61を進む。途中、岡山空港(桃太郎空港)の脇をかすめるが、こんな山奥にあるのを知りませんでした…
 その後、県道72、367を経て、建部でR53に合流。以降、JR津山線に沿いながらひたすら北上し、1時間半弱で津山に到着。
 津山はどんよりとした曇天で、完全に岡山市からは気候帯が変わった感じ。津山城跡の無料駐車場(鶴山公園駐車場)に車を止め、ちょうど昼頃だったので、B級グルメで有名な「津山ホルモンうどん」を食べようと思い、街中を彷徨ったが、某有名店は臨時休業で、既に廃業した店も2、3あって、思いは叶わず(涙)…
 一番の中心街と思われる商店街は、こんな感じ(笑)… 仕方がないので、コンビニで昼食を取る私…

津山城の豪壮な石垣群 13:26

 ようやく津山城跡へ向かう。津山城は、慶長9年(1604年)に初代津山藩主森忠政により築城が開始され、足掛け13年の歳月をかけて完成した。城下からの比高差約50mの鶴山を壮大な石垣を築くことによって三段に整形し、本丸・二の丸・三の丸を構築、壮大な規模を誇り、往時は4重5階地下1階、高さ約23mの層塔型天守のほか、数多くの櫓がひしめき合っていて、その総数は60棟と、とんでもない規模を誇る城なのである(何でも、櫓の数が最も多い城郭は広島城の76棟!、次いで姫路城の61棟と続き、津山城は何と3位なのだ)。そして、明治初期の廃城令で、大蔵省管理となり競売にかけられ、天守をはじめ全ての建造物が破却されてしまった… 勿体ない!
 駐車場から鶴山公園へ。巨大な桝形の石垣が残る冠木門跡から城内へ進入し、三ノ丸に入ると、見上げる石垣が凄すぎる。

城内で唯一の復元建造物「備中櫓」 13:28

 二の丸に入ると、見上げる本丸には、備中櫓が… 張り出した櫓を支える扇の勾配の石垣が優美過ぎる。
 備中櫓は、城内最大の櫓で、全室畳敷きで御殿の一部として使用されていたという生活のために使われた、珍しい用途の櫓である。平成17年(2005年)に、築城400年記念行事の一環として復元された。

二ノ丸から本丸への石段 13:29

 右へ左へと方向を変えられて石段を上がっていく。往時なら、並び立った櫓群から雨あられののように撃たれまくるんだろう…

いよいよ本丸へ 13:31

 鉄板で覆われた門扉だったことから表鉄門と名が付いた、いかにも堅そうな櫓門跡が本丸の入口だ。この門は文化6年(1809年)の火災で、本丸御殿とともに焼失してしまったらしい。
 いよいよ本丸へ。決して狭くはない本丸全体も積まれた石垣で囲まれており、何でも近くの山からの攻撃を受けないように積まれたらしい。

天守台からの備中櫓と津山市街 13:41

 天守は本丸の南西部に位置しており、天守のすぐ東側はまたしても石垣で区切られるなど、「天守曲輪」と呼べるような構造になっている。
 天守台に登る。途中の石垣の中にハート形の石が埋まっており、「愛の奇石」と看板を立てて、大々的に宣伝していたが、ちょっと場違い(笑)…
 さすがにこの辺りで一番高いところなので、津山市街が一望である。

本丸からの那岐連山 13:45

 本丸の北東隅からは、雪雲に隠れているが、那岐連山の一部が見える。

本丸 13:51

 本丸東側から、南西方面の備中櫓(左)と天守台(中奥)を望む。このように本丸も相当広い。

本丸を後に 13:54

 二ノ丸への下りの途中からの本丸。備中櫓がかっちょええ〜
 以上で今城旅は終了! 中国道、新名神でスムーズに帰阪しました。

参考タイム

12/9鬼ノ城ビジターセンター 7:157:25 西門跡 7:307:40 南門跡 7:407:50 東門跡 7:508:00 屏風折れの石垣 8:008:10 北門跡 8:108:20 礎石建物跡 8:208:30 鬼ノ城山 8:308:40 鬼ノ城ビジターセンター
足守プラザ 9:109:20 緒方洪庵生誕地 9:209:30 足守陣屋跡・近水園・木下利玄の生家 9:359:40 旧足守藩侍屋敷 9:459:55 足守プラザ
鶴山公園駐車場 13:1513:30 本丸跡 13:5014:00 鶴山公園駐車場

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