善光寺街道(北国街道)その4(下戸倉〜善光寺)

−善光寺街道歩き4日目 ついに善光寺に到着!−

   

山行概要

日 程
2022年5月2日(月)
山 域
善光寺街道
天 気
晴れ
メンバー
単独
コースタイム
しなの鉄道戸倉駅=1:10=しなの鉄道屋代駅=0:55=矢代の渡し跡北側=0:10=篠ノ井追分=0:30=JR篠ノ井駅=1:15=丹波島宿跡(於佐加神社)=1:00=JR長野駅前「末広町」=0:20=善光寺=0:20=JR長野駅【5:40】

記録文(写真はクリックで拡大)

 まだ山間には霧が残る中、戸倉駅からリスタート!
 駅前からR18を少し北に進んですぐに、右手の脇道に入る。山際の静かな集落内を進む。
 いつの間にか、千曲駅を通過していた…

寂蒔水除土手の碑 6:03

 街道沿いにポツリと「寂蒔水除土手(じゃくまくみずよけどて)の碑」が立っていた。
 ここに昔土堤があり、千曲川 の氾濫から田畑や家屋を守るために、元禄6年(1693年)、寂蒔 ・鋳物師屋 ・打沢 ・小島の4箇村によって築かれたとのこと。
 北国街道と土堤が交差する所は、非常時には土のうや石で道の部分を埋めて、ひと続きの土堤として水害を防いだらしい。

街道の風景 6:04

 土手の石碑辺りの街道の様子。早朝ですし静かです。

天皇子神社 6:14

 しばらく街道を進んだ先の左手に、天皇子神社が鎮座しているので、立ち寄る。
 天皇子神社の御祭神のうち、伊登志和気命(いとしわけのみこと)は、第11代垂仁天皇の第14王子で、境内にはこの地でお亡くなりになられた命の御陵墓でもある。その斎場に正哉吾勝勝速日天忍穂耳命(まさかあかつかちはやひあまのおしほみのみこと:天照大神と素戔嗚尊の誓約で生まれた五皇子の長男で、神武天皇の高祖父)を併せて祀っており、古くは「王子の宮」や「王子の神社」とも称されていた。
 文政10年(1827年)に天皇子神社の社号を受け、社紋には菊の御紋章が使われている。

天皇子神社のケヤキ 6:14

 そして境内には大ケヤキが堂々たる姿を見せている。
 長野県内には、周囲8m以上のケヤキの巨木が十数本あるらしいが、その内の一つで、周囲9m、樹高26mに達する名木であり、千曲市の天然記念物に指定されている。
 街道筋をさらに北へ。周囲はしだいに市街化してきて、いつしか2車線に拡幅された。
 「屋代駅前」交差点で西から来る県道392号線に合流し、更に北へ進むと、枡形があり、突き当りに須須岐水(すすきみず)神社が鎮座する。
 この辺りが矢代宿の中心地だったという、矢代宿は慶長16年(1612年)に伝馬駅として開設された。

須須岐水神社 6:45

 須須岐水神社は社伝によると白鳳2年(673年)の創建で、近世においては真田氏の崇敬を受けたが、度重なる洪水で一時荒廃したが、嘉永4年(1851年)に再建された。
 古くから水神として信仰され、矢代用水堰の守護神であった。

松代道追分 6:50

 枡形を通過し、さらに北上すると、「高見町」交差点で県道は東に折れるが、旧街道筋はそのまま北上する。
 交差点から200m程進んだ所に「信濃矢代宿脇本陣跡」の碑が立っており、矢代宿脇本陣の柿崎家とのこと、その脇本陣の少し先に「明治天皇御小休所」の碑が立つ敷地があり、こちらが矢代宿本陣で脇本陣と同姓である柿崎家が問屋場兼任で勤めていたという。
 本陣、脇本陣の間に細い路地があり街道筋と交差しているが、この路地が北国街道の脇往還である「松代道」で、矢代から松代を経由して丹波島宿、牟礼宿へ通じる道筋である。

矢代の渡し跡付近(北側) 7:30

 さらに北上すると、「屋代」交差点でR18に合流。横断しなければいけないが、付近に信号がなく、片側2車線の幹線なので、なかなか横断できず、ヤキモキする。
 何とか横断に成功し、100mほど国道を進んで、左に別れる間道に入る。工場が並ぶ通りを過ぎると、千曲川の堤防に突き当たる。
 昔は「矢代の渡し」があり、ここで千曲川を渡るのだが、当然ながら、今はないので、東へ300mほど川沿いに進んだ篠ノ井橋までかなりの迂回を強いられる。
 篠ノ井橋を渡る。ここで長野市に入った。橋の北詰から再び千曲川沿いに西に戻って、ようやく渡しの迂回終了。1km以上かかった…

軻良根古神社 7:34

 矢代の渡し跡の北側から堤防を下ったところに、軻良根古(からねこ)神社が鎮座する。難読だ…
 鼠と戦って相打ちになった唐猫が千曲川を流れてこの地に行き着き、からねこ神社と呼ばれたとの伝承がある。

篠ノ井追分 7:40

 北に進んでいくと、「更級郡役所、塩崎警察署跡」の碑が西側に立っている。この辺りから篠ノ井宿跡で、明治初期には警察署、郡役所等が置かれ、更級郡の中心となっていたとのこと。
 さらに、100m程進むと、T字路になっていて、ここで西に「北国西街道」が分岐する追分となっている。「北国西街道」は中山道の「洗馬宿」から松本宿を経由して、この篠ノ井追分宿で善光寺街道(北国街道)と合流する脇往還である。今回購入したヤマケイのガイドブックにも収録されているので、多分、いつか歩くと思います。
 篠ノ井宿は、幕府が定めた正規の宿駅では無く追分があることで繁栄した間の宿だったが、人の往来が多く、「矢代の渡し」もあったことから、かなり栄えた宿場だったらしい。

宝昌寺 7:59

 追分しばらく東に進み、「見六橋」を渡ってすぐのY字路を左に入って、県道を離れ北に進む。
 500mほど進むと西側に宝昌寺。
 群馬県安中市秋間の桂昌寺の末寺、桂昌寺住職の月巣玄鶴和尚がこの地に来て薬師堂に留まり、境内を拡張して、寺を建て一山を起こし「薬王山宝昌寺」と称し開基したのが始まりである。
 本堂で寺子屋が開かれ、村人が学んだという。その後、明治6年(1873年)の学制発布により通明小学校が本堂を借りて発足、明治13年(1880年)まで使用された。

本堂入口には蟹の紋が… 8:00

 本堂入口以外にも、蟹の紋が、建物の様々な箇所にある。これは松代藩の家老であった鎌原氏が本堂の再建に貢献したことから、鎌原氏の家紋である蟹が使われているらしい…
 さらに北に進んで行くと、篠ノ井駅前に出、ここから斜めに北東方向に街道は進む。
 1車線の脇道だが、抜け道になっているのか、けっこう交通量があり、怖い…

世茂井神社 8:29

 街道東側に世茂井神社の標識があったので、立ち寄る。
 世茂井神社の創建は、推古天皇30年(622年)と謂われている。
 その後、当地の領主が村上、武田、真田氏と変わったが、引き続き神祭料は下腸された。当時「諏訪大明神」と称されていたが、寛政9年(1797年)、「地名を貰って世茂井神社として戴きたい」旨の、趣意書を信州更級郡原村の名主、組頭産子総代他の連名で、京都本書へ願いでたところ、許可され、お祭が盛大に行われたとのこと。
 昭和22年(1947年)8月、拝殿と本殿屋根の葺き替えが、昭和43年(1968年)には屋根の改装と社殿の営繕が行われた。

蓮香寺 8:33

 世茂井神社の向かい、街道西側には、蓮香寺がある。
 蓮香寺は、京都知恩院も末寺で、貞治6年(1367年)に、川中島原の西畑沖に創建され、その後安土桃山時代の慶長元年(1596年)に現地に移転された。
 平成10年(1998年)の長野オリンピックでは、当山をドイツチームのゲストハウスとして貸与し、多くの選手・役員・報道関係者が利用し、国際親善に努めたということで、ドイツから功労勲章を貰ったとのこと。

浄生庵(観音堂) 9:24

 蓮香寺を後に、ひたすら街道筋を北に進み、川中島支所を通過、長野南バイパスの下をくぐり抜ける。JR川中島駅の東側を通過した辺りから、街道は北東方向に進むようになり、しばらく進むと、街道西側に立派なお堂が目に入ってくる。
 これが浄生庵(観音堂)で、享保7年(1722年)、江戸からこの地を通り何処かへ地蔵菩薩像を運ぶ途中にこの場所で根が生えた様に動かなくなったため、これを地蔵菩薩の御導きと捉えて此処へ安住させる事に決め、寛延元年(1748年)にお堂が建立されたとのこと。

丹波島宿跡(於佐加神社) 9:25

 浄生庵のすぐ先で街道は右へ直角に曲がる。ここが丹波島宿の西の入口で、突き当りの場所に於佐加神社が鎮座する。
 於佐加神社は、丹波島宿の鎮守で宿場開設後の寛文2年(1662年)に諏訪川原から移設された、社内には秋葉社、弥栄社、三峰社、天満社、金毘羅社、住吉社、新津権現、道祖神、庚申塚の9社が祀られている。

於佐加神社境内から見た丹波島宿跡 9:26

 丹波島宿は慶長16年(1611年)に設立された北国街道の宿場町で本陣や脇本陣が設置され東西6町(約654m)の長さがあった。
 善光寺詣までの最後の宿場で、犀川を渡る「丹波島の渡し」があったことなどで参拝者や旅人達が多く利用した。

丹波島宿の問屋場「柳島家」跡 9:30

 宿場町跡を東へ進んで行くと、宿の中程に高札場が有り、その直ぐ隣の冠木門の家屋が丹波島宿の問屋場「柳島家」で、柳島家は宿開設から幕末に至るまで継続して問屋場(近世の宿駅において、伝馬・人足の継立てを差配する施設)を務めていた。

丹波島宿の本陣「柳島家」跡 9:31

 問屋場跡から50m程先に「明治天皇御小休所」の碑が立っており、ここが丹波島宿の本陣跡で、問屋場と同じく柳島家が務めていた。
 柳島家は元々甲斐武田氏の家臣で、太郎左衛門政雄の代に丹波島宿が開設され、本陣、問屋場を委任された。
 本陣は、代々柳島太郎左衛門家が世襲し、往時は間口60間、奥行き60間の屋敷を構え、明治天皇巡幸の際に休息所として利用された。
 脇本陣も柳島家の分家が勤め、問屋を兼任するなど丹波島宿で大きな影響力を持っていた。
 交通の要衝でもあり、本陣跡の向かい側からは、矢代宿から分かれた「松代道」が合流してくる追分がある。松代道は、屋代宿から松代城の城下に入り、ここで、川田、牟礼宿へ向かうルートと、丹波島宿へ通じるルートに分かれるが、ここで合流してくるのだ。

「丹波嶋の渡し」の碑 9:38

 宿場町の東端で直角に左折し、北に少し進むと、犀川の土手に突き当たる。ここに「丹波嶋の渡し」の碑が立っていた。
 永禄4年(1561年)の川中島の戦いのころは、1kmほど下流の「市村の渡し」が犀川の主要な渡し場で、「丹波島の渡し」は「市村の渡し」の補助的な渡しであった。
 同年9月10日、武田軍の戦術を見破り、妻女山を引き払って武田本陣に奇襲をかけようした上杉軍。戦いの終盤、直江兼続の別働隊は丹波島に留まり、味方の犀川越えのために備えていた。
 同日早朝、両軍が激突、序盤は奇襲をかけた上杉軍が優勢だったが、後半、武田の妻女山攻撃隊の援軍で巻き返し、次第に劣勢となった上杉軍は犀川めざして敗走した。丹波島へ回った兵士たちは直江隊の働きで善光寺横山城へと撤退できたが、下流の市村の渡しに回った兵士の多くは戦死したという。

犀川を渡る 9:45

 土手を東に200mほど進み、丹波島橋で犀川を渡る。もう善光寺へは1里ほどだ。
 「丹波島の渡し」が重要視されるようになるのは、慶長期(1596−1615年)以降で、慶長8年(1603年)、家康の六男松平忠輝が川中島を領有し、忠輝の家臣、花井義成・義雄父子が海津城代に任命されたが、花井父子は裾花川の瀬直しを行うとともに、北国街道を整備し、丹波島宿などの宿駅を定めた。
 橋の北詰から斜め右に入る脇道が街道筋となっており、北に進む。

吹上地蔵堂 10:01

 若里町に入ると、街道西側に小さなお堂が建つ。
 「吹上地蔵堂」といい、安産・子育・安穏・延命長寿にご霊験あらたかという。

蓮心寺 10:02

 地蔵堂のすぐ横には、浄土宗の蓮心寺が建つ。昭和の一時期にはこの寺の前に高札場が移転されたとのこと。
 さらに北に進むと、木留神社が鎮座する。

木留神社とケヤキの大木 10:04

 木留神社は善光寺七社の一つで、社伝では、正治年間(1199−1201年)以前の建立といわれているが、延享2年(1745年)の火災で古文書や宝物が失われてしまい詳細は不詳。
 昔は、犀川の沿岸にあり、流木がよくここに流れ着いたため、木留明神と呼ばれていたらしい。
 善光寺再建の際、普請用の御用材を千曲川や犀川に流しておろし、この近くの丹波島の渡しで陸揚げをし、この神社に材木を留め置いたと伝えられています。古い言い伝えでは、善光寺普請用の御用材が洪水で流出しそうになったとき、木留明神が現れてそれらを留めたという話もあるらしい。
 境内には大ケヤキがあり、樹齢はゆうに500年を超えるらしい。

観音寺 10:12

 駅ビルが目に入るようになってきた。長野駅はもうすぐ先だ。この辺り、「中御所」という地名だが、建久8年(1197年)、源頼朝が善光寺に参拝した際、当時のこの辺りの領主、漆田氏が建てた館に宿泊したため、その名が付いたと言われている。
 JR線に突き当たる手前の街道西側に、観音寺を発見。源頼朝の創建と伝えられ、毎年8月9日には「四万八千日縁日」が行われる。この日にお参りすると、四万八千日お参りしたのと同じ功徳があるといわれている。
 JR線を跨線橋で渡り、「末広町」交差点へ。後は北へ一直線に善光寺に向かうのみ。

善光寺仁王門 10:45

 7年に一度の御開帳で、参道は大賑わい。人を掻き分けながら進み、ようやく仁王門の前に到着、ついに善光寺到着である。善光寺街道コンプリート!
 仁王門は、宝暦2年(1752年)に建立されたが、善光寺大地震などにより二度焼失し、大正7年(1918年)に再建された。
 高さ約14m、間口約13m、奥行7mの堂々たる門で、善光寺の山号である「定額山」の額が掲げられている。
 国登録有形文化財である。

善光寺山門 10:47

 さらに境内奥へ。仁王門よりはるかにでかい門が…   寛永3年(1750年)の建立。高さ約20m、間口約20m、奥行8mの巨大門で、有名な「鳩字」の額がかかっている。「鳩字」の由来は、額に書かれた「善光寺」の文字の中に五羽の鳩が隠されているため。国の重要文化財である。
 門内部には、文殊菩薩騎獅像、四天王像や、四国八十八ヶ所霊場ゆかりの仏像などが安置されている。

善光寺本堂 10:48

 山門を抜けると、目の間には本堂が…
 宝永4年(1707年)の建立で、国宝に指定される木造建築としては4番目の大きさである。
 本堂を俯瞰して見ると、鐘を叩く道具である撞木(しゅもく)の形をしていることから、撞木造りと呼ばれている。
 本堂は入口を俗世、最奥を極楽として設計されており、外陣には人間を裁く閻魔大王、内陣は俗世の救済者である弥勒菩薩と地蔵菩薩が配され、最も奥の瑠璃壇には、絶対秘仏の一光三尊阿弥陀如来像が御安置されている。

御開帳中〜 10:50

 折しも7年に一度の御開帳が開催されており、秘仏本尊の御身代りである「前立本尊」が開帳されるが、物凄い行列… コロナが怖い(笑)…  御開帳の正式名は、「善光寺前立本尊御開帳」といい、期間中は前立本尊と本堂の前に立てられた回向柱が「善の綱」と呼ばれる五色の紐で結ばれ、回向柱に触れると前立本尊に直接触れたのと同じ御利益があり、来世の幸せが約束されるとされる。また、釈迦堂前にも小さい回向柱が立てられ、堂内の釈迦涅槃像の右手と紐で結ばれ、回向柱に触れることにより釈迦如来と結縁し、現世の幸せが約束されるとされる。このため、この二つの回向柱に触れることにより、現世の仏である釈迦如来と来世の仏である阿弥陀如来と結縁し、利益・功徳が得られると言われている。
 物凄い御利益を得られそうだが、行列大嫌いの私には耐えられるはずもなく、早々に退散… 長野駅に戻った。

参考タイム

5/2しなの鉄道戸倉駅 5:256:35 しなの鉄道屋代駅 6:357:30 矢代の渡し跡北側 7:307:40 篠ノ井追分 7:408:10 JR篠ノ井駅 8:109:25 丹波島宿跡(於佐加神社) 9:2510:25 JR長野駅前「末広町」 10:2510:45 善光寺 10:5511:15 JR長野駅

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