五島列島・長崎の旅2019

−ついに念願の五島列島に上陸! 世界遺産「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」の構成資産巡りを堪能!−

   

旅程図

旅の概要

日 程
2019年3月15日(金)〜19日(火)
メンバー
単独
旅 程
3/15
枚方〜博多〜
3/16
〜小値賀島〜野崎島(二半岳登山・島内散策)〜小値賀島(愛宕山登山・島内周遊)
3/17
小値賀島〜福江島(鬼岳・城山登山・島内周遊)〜久賀島〜奈留島〜若松島〜中通島
3/18
中通島〜頭ヶ島〜中通島((番岳登山・島内周遊)〜長崎
3/19
長崎(風頭山・鍋冠山登山・市内散策)〜博多〜枚方

プロローグ

 昨年6月、世界遺産に無事登録された「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」。数ある資産群の中でも特に未訪の五島列島の集落(教会)に惹かれてしまい、タイミングを計っていた。
 五島列島の構成遺産4箇所は、全て別の島に別れている(野崎島・頭ヶ島・奈留島・久賀島)ので、個人で効率的に訪れるには、見学申請や寄付手続きも一括で行ってくれるガイドツアーを利用するのが最善手なのである。この年末年始にも行こうと思ったのだが、ツアーが開催されないため、断念し、四国へ転戦していた…
 それからも効率的なプランを練り続けていたのだが、博多港からの夜行のフェリーとガイドツアー、レンタカー等を駆使することで、3日あれば4島全て回れるプランを構築することができ、さらにタイミングを計る中で、ついに3月中旬に+1日の余裕を持つ4連休を取得できる見込みが立った。
 ガイドツアー、JRの早得きっぷ、フェリー、レンタカー、ホテルなどを次々と確保し、準備を着々と進めたのであった…

旅行記

 3/15 曇り後雨

 この日は普通に通常業務を終え、定時に帰宅。速攻出発し、新大阪駅へ。
 20時9分発の、さくら573号で出発。車内で一杯ひっかけ、小雨が降り出した博多に23時前に到着し、バスで博多港へ。雨が降り出してきた…
 酔っぱらっていたが、無事に野母商船のフェリー「太古」に乗り込み、定刻通り23時45分に五島列島へ向けて出港した。
 スタンダードの雑魚寝部屋だったが、私はいつものように爆睡(笑) この日はシケでかなり揺れたようで、翌日、青い顔をしている人が多かった(笑) 私の三半規管は無敵です(笑)

 
   

 3/16 曇り後快晴

 小値賀島には早朝4時40分着(笑)。何とか寝過ごすことなく下船。本日の目的地である無人島野崎島への便は7時25分発… 当然ながらこんな時間にすることはないし、眠いので、開放されているフェリーターミナルの仮眠室を利用させてもらう。
 6時半にフェリーターミナルが営業を始める。野崎島観光の窓口となっている「NPO法人おぢかアイランドツーリズム」のカウンターも開くので、早速訪れ、今日のガイド料(4320円)の支払いや、余計な荷物を預かってもらう。

町営船「はまゆう」に乗船 7:10

 フェリーターミナルとは反対側にある町営船発着所という小さな埠頭に向かい、「はまゆう」に乗船。
 「太古」の全長94m、総トン数1、598トンに比べ、「はまゆう」は18.5m、19トンといかにも小さい(笑)…
 野崎島までの片道500円を支払い、いよいよ出港!
 「はまゆう」は、野崎島の北端を回り込んで、野崎島東岸にある野崎港を目指す。途中、島の北端に位置し、今回行けなかった沖ノ神島神社の御神体である王位石(おえいし)が望めた。

野崎港に到着。正面は二半岳 7:57

 30分ほどでついに野崎島に到着。まずはビジターセンターで基礎情報の説明を受ける。他のツアー参加者の関係で、ガイド開始時間は11時からなので、それまで目の前の二半岳に登ろうと思って、たまたま港にいたガイドの前田さんに道の状況を確認したら、「道が崩壊しているし、イノシシも出る。絶対に行くな!」と言われてしまった(涙)…
 「私、登山歴40年近いんですけど…」と、何度か言い合うが埒が明かず、前田さんは「とりあえず、自然学塾村に来い!」と言い、車で去ってしまった…

 二半岳登山・野崎島散策・愛宕山登山へ

 愛宕山園地を後に、島の中央部へ向かう。

姫の松原 16:26

 すると、道の両側に果てしなく広がる松並木が…
 これが姫の松原で、小値賀を代表する松並木である。道の両側を覆うクロマツの並木が一直線に約450メートル延びているのだ。
 このクロマツは、小値賀町の町木で、周りを海に囲まれ、高い山がない小値賀島では、防風・防潮林として、そして魚つき林としても、欠かせない存在らしい。

長崎鼻 16:37

 再び北に向かい、海に突き出た長崎鼻と呼ばれる草原状の岬へ。
 牛の放牧場になっており、のんびりと牛が牧草を食んでいる。潮風をモロに受けるので、ここの牧草はミネラル豊富なのだそうだ。

斑島へ 16:49

 西へ向かい、290mの斑大橋で斑島へ。周囲約5km、人口200人ほどの小島である。海底火山の噴火によってできた島らしい。

ポットホールへ 16:56

 島北側の玉石鼻という岬にあるポットホールへ。「玉石大明神」の鳥居が建つ。
 鳥居の先にポットホールがある。

ポットホール 16:58

 ポットホールは、日本語で甌穴(おうけつ)と呼ばれ、溶岩の地形に波の作用により形成されている。甌穴の中には直径50cmほどの玉石があり、甌穴自体のサイズは深さ3m、穴の直径は上部が90cmほどで、この甌穴の大きさは世界2位とも、日本国内では最大とも言われており、国の天然記念物に指定されている。
 しばらく眺めていると、大きな波が来て、甌穴内に水が浸入し、玉石がクルクルと回転した。この繰り返しで周囲の壁面を削っていくのだそうだ。

五島の初飯は「焼鳥こにし」さん!@ 17:54

 日没により、ここで小値賀島・斑島の探索終了。港のある笛吹郷に戻り、予約していたゲストハウスの「島宿御縁」さんチェックイン。
 よく考えたら、本日、何も喰ってなかった(笑) 腹減った〜 ヨロヨロしながら、笛吹郷の町なかに繰り出すが、旨い魚が喰えそうな店は軒並み満員(涙)… 偶然通り過ぎた「焼鳥こにし」さんへ。
 ここも満員寸前だったが、何とかカウンターの1席を確保。焼鳥盛り合わせでスタート!

五島の初飯は「焼鳥こにし」さん!A 17:56

 続いて。地鶏のたたき! ハイボールが進む、進む…
 宿でも呑み直して、五島列島の旅1日目が終わった…

 
   

 3/17 曇り後快晴

 この日も4時起床… 眠い… と言うのも、昨日も乗船した、博多からやって来るフェリー「太古」に乗るためである。レンタカーで小値賀港へ。
 フェリーターミナルの駐車場に鍵を差しっぱなしで車を止める。「誰も盗る人なんていないし、ターミナルに置いといて」と、前日、レンタカー会社の方に言われていたのだ(笑)  無事に4時50分発の「太古」に乗りこみ、福江島に向かう。五島列島の北端に近い小値賀島から、いきなり南端の福江島に向かうのは決して合理的な旅程ではないのだが、ガイドツアーの関係で世界遺産を効率的に巡るにはこれしか手がなかったのである。

若松大橋を通過 6:45

 「太古」は途中、中通島と若松島を結ぶ、全長522mのトラス橋、若松大橋をくぐっていく。この若松大橋は、この日の夕方に車で走行することになる…
 定刻通り福江島に到着し、すぐに予約していた福江港近くのニッポンレンタカーへ。ガイドツアーの集合時間である12時過ぎまで福江島の観光にあてるのだ。

 鬼岳・城岳登山へ

 福江港のターミナルで軽く食事を取り、ツアー開始時間を待つ。

海上タクシーに乗り込む 12:50

 ターミナル内で、ツアー参加客が集合し、ガイド料12000円を支払い、いよいよ「五島列島キリシタン物語〜縦断クルーズ編〜」のスタート。
 値は張るが、半日で、世界遺産構成資産内教会のうち、久賀島(ひさかじま)の旧五輪教会堂と、奈留島(なるしま)の江上天主堂を巡れるうえに、最後は中通島まで送ってもらえるという効率的なツアーなのだ。
 逆向きの中通島から福江島と南に抜けるコースもあり、五島列島北端に近い小値賀島から入った私にとっては、こちらの方が合理的な旅程になるのだが、このツアーは基本土日のみの催行であり、中通島の探索に1日必要なので、本日(日曜日)を中通島の探索に充ててしまった場合、明日ツアーがないので、やむなく、小値賀島(五島列島北部)⇒福江島(南部)⇒中通島(中部)という、南北に行ったり来たりという非効率的な動きとなってしまっているのだ。

五輪地区に上陸 13;18

 海上タクシーは一気に久賀島東岸の五輪地区に到着。本来、ここに直接渡る定期便はなく、最寄りの港からタクシーに乗り、終点から徒歩で10分ほど山道を歩かねばならないところで、ツアーならではの動きである。
 左奥に旧五輪教会堂の姿が見える。現在、この地には、漁師1軒のみが居住しているとのこと。

旧五輪教会堂 13;27

 埠頭から3分で旧五輪教会堂に到着(笑)
 旧五輪教会堂は、世界遺産構成資産の「久賀島の集落」に包括される教会であり、明治14年(1881年)に久賀島で最初の教会堂であるカトリック浜脇教会を、その改築に当たり、旧教会堂を五輪地区へ移築したものである。
 リブ・ヴォールト天井を持つ木造平屋建てで、設計者は不詳。長崎県の教会堂としては国宝の大浦天主堂に次いで古い木造教会であり、創建当時の姿を残していることから、国の重要文化財に指定されている。

教会堂側面の窓 13;29

 旧聖堂のすぐ右側に新聖堂が建設されており、旧五輪教会堂は現役の教会堂ではないことから、内部撮影が可能となっている。
 新聖堂が建てられる際に、旧聖堂は解体される予定だったが、その寸前、島内の仏教徒の助言によって価値が再確認され、五島市に寄贈のうえ、文化財として保存されることになったらしい。
 ガラス窓から海が見えるが、かつては2枚のガラスの間に水彩画をはさみ、ステンドグラス風に仕上げられていたらしい。

入口部分の装飾 13;30

 入口部分に施された十字架の模様が入った装飾。一見ステンドグラスに見えるが、これが2枚の透明ガラスの間にカラーのセロハン紙をはさんだものであり、この箇所のみ残っている。

続いて奈留島に上陸 14:01

 久賀島を後に奈留島へ。Y字型をした島の北西部分の南岸に江上地区がある。
 今回も海上タクシーは江上地区のすぐ近くの埠頭に接岸する。
 歩いて5分ほどで江上地区へ。ここは先ほどの五輪地区と異なり、道路が通じているが、住んでいるのは高齢の姉妹2人のみとのこと。

江上天主堂 14:23

 森の中に白亜の聖堂が建つ。水色の窓との取り合わせが美しい。
 江上天主堂は、鉄川与助の設計・施工によるリブ・ヴォールト天井を持つ木造平屋、瓦葺きのロマネスク様式の聖堂で、大正7年(1918年)の竣工。
 世界遺産構成資産の「江上集落」に包括されるとともに、国指定の重要文化財である。
 かつては中五島の中心的な存在であったが、現在は姉妹2人でミサを開くことができず、島の中心部から応援を得て、何とか開催しているらしい。

キリシタン洞窟を通過 15:10

 奈留島を後に、次は若松島へ。途中、若松島南端のキリシタン洞窟を海上から見学する。
 ガイドツアーの中には上陸するプランもあるようだが、残念ながら今回のツアーは海から眺めるのみであった。
 この洞窟は、若松島の里ノ浦地区にいたキリシタンが、五島崩れの際に、迫害を避けるため、隠れたところで、船でしか行けない険しい断崖に面しているが、焚き火の煙を船に見つけられてしまい、捕縛され拷問を受けることとなった。
 この洞窟は後にキリシタンワンドと呼ばれ、昭和42年(1967年)、入口に十字架と3mのキリスト像が設けられた。

若松島に上陸 15:34

 海上タクシーは無事若松港に到着し、ここでバスに乗り換える。ここからは橋で陸続きになっている中通島の有川まで向かうのだ。

若松大橋 15:42

 今朝の7時前に橋の下をフェリー「太古」で通過した若松大橋をバスで走行し、上五島町の中心で、五島列島で2番目に大きい島である中通島に上陸。本日5島目、五島通算8島目である。
 バスは途中、中ノ浦教会に立ち寄ってくれた。

中ノ浦教会 15:55

 中ノ浦教会は、海辺ぎりぎりに建ち、水面に映える白壁が非常に美しい教会である。
 中ノ浦教会は、大正14年(1925年)の建立で、シンプルな重層屋根の木造教会である。
 信徒の祖先は、寛政年間(1789−1801年)に外海地方の黒崎から移住してきたキリシタン達だが、明治初め「五島崩れ」の迫害が激しかった地の一つであり、この教会は、激しい弾圧を経験した信徒たちの「五島で一番美しい聖堂を造りたい」という願いを具現化したものであると言われている。

跡次教会 16:13

 続いて高台の跡次集落へ。
 跡次のキリスト教信仰は、明治12年(1879年)、大曽から4人、丸尾から8人の漁師が入居したのが信仰の始まりと言われている。
 初代教会は、大正3年(1914年)に青方小学校を半分買い受けて建立され、2代目が昭和7年(1932年)に初代の材木の良い部分も使って建設、そして3代目の現教会は、昭和59年(1984年)の建立である。
 教会前からの西方の眺望は素晴らしく、折島と柏島に跨る上五島洋上石油備蓄基地(世界初の洋上石油備蓄基地)や大曽教会を眺めることが出来る。

五島2日目の夜は「和食処 味彩」さん!@ 17:16

 バスは有川にある「五島うどんの里」に無事到着し、ここでツアーは解散。私はすぐ近くの予約していたビジネスホテルにチェックインし、ホテルの人に教えてもらった「和食処 味彩」さんの始業と同時に突入!
 まずは造り盛りでスタート!

五島2日目の夜は「和食処 味彩」さん!A 17:20

 続いて、鯨や五島ビーフ等のカツ盛り合わせ!

五島2日目の夜は「和食処 味彩」さん!B 17:32

 鯨ベーコン! 有川は、昔から捕鯨で栄えたまちである。
 江戸時代初期(1620年代)に紀州から伝えられたのが始まりと言われており、紀州式の突いて捕る方式から網とり法へと変化し、多数の捕獲高を記録し、「鯨一頭捕らえれば七浦潤う」と言われ、五島藩の財政を潤してきた。
 その後も捕鯨の歴史は続き、昭和10年(1935年)には南氷洋捕鯨が始まり、全盛期の昭和32年(1957年)には有川で800人もの人が捕鯨に従事し、町の予算(1億2千万円)に匹敵する所得を得ていたらしい。
 昭和63年(1988年)に商業捕鯨は全面禁止となった以降も、ここ有川には10名を超える人が調査捕鯨に従事しているとのこと。排他的な考えしかできないアホバカ外国人の抵抗に負けず、日本の大事な食文化を何とか守っていって欲しいものである…

五島2日目の夜は「和食処 味彩」さん!C 17:36

 そして、ついにインスタ映えし過ぎる、ハコフグの味噌焼き(かっとっぽ)が登場!
 これは五島で昔から伝わり、ハコフグの腹を丸く切って内臓を処理したのちに、身を取り出し、味噌、酒、きざみねぎなどを混ぜ合わせて、再び腹に戻し、アルミホイルで包み焼きにする料理で、最高に旨い。
 ハコフグは足が速いので、五島以外ではなかなか流通していないらしい。「ハコフグ」は、上五島列島周辺では「かっとっぽ」という呼び名で親しまれており、その代表料理である味噌焼きも「かっとっぽ」と呼ばれることが多いらしい。
 大満足で「和食処 味彩」さんを後にする。この日も大満足で五島の島旅2日目を終えた…

 
   

 3/18 曇り

 のんびり起床し、町はずれにあるトヨタレンタカーに8時前に到着。この日は中通島を縦横無尽に走り回る予定だ。世界遺産構成資産の「頭ヶ島集落」の見学は事前予約が必要で、私は9時半に時間を指定されていたので、それまでに少し島の南東側の教会を巡ってみることに。

船隠教会 8:23

 有川から険しい山道を南下。五島灘に面した入江の奥に小さな船隠の集落が現れ、美しい白壁の教会が建つ。
 船隠集落の信仰の歴史は、パリ外国宣教会のフレノ神父が明治16年(1883年)に民家でミサを行ったのが始まりとされる。
 初代教会は昭和2年(1927年)、民家を買い受け使用していたが、老朽化と戦後の人口増のため、昭和27年(1952年)に新教会の建設に着工、土砂崩れや台風などの自然災害に見舞われたが、4年後の昭和31年(1956年)に完成した。

旧鯛ノ浦教会 8:48

 船隠教会から反転北上し、先程通過した鯛ノ浦集落へ。集落の高台に、旧堂と新堂が並び建つ鯛ノ浦教会がある。
 明治3年(1870年)の鯛ノ浦六人斬りの弾圧で知られるように、鯛ノ浦地区は昔からキリシタン信仰が篤く、明治14年(1881年)には旧鯛ノ浦教会堂が建立され、上五島における布教の中心を担ってきた。その後、明治36年(1903年)、木造瓦葺の教会に建て替えられ、戦後すぐにはレンガ造りの鐘楼腰が増設され、現在の姿になった。鐘楼外壁には被爆した浦上天主堂のレンガも使われている。
 その後、潮風のため、破損が著しくなったため、昭和54年(1979年)、不漁続きで不況の最中、信徒世帯当り80万円という巨額な拠出により現在の新聖堂に建て替えられた。旧聖堂は現在、キリシタンの歴史が分かる資料室と図書室として利用されている。

教会堂の横にはルルドが… 8:49

 鯛ノ浦教会は敷地内に聖地ルルドを設け、優しい慈愛の微笑みをたたえたマリア様を祀り、毎年5月と10月にはルルドヘの信仰を深めている。

龍馬の銅像 9:10

 頭ヶ島集落の見学時間が近づいてきたので、北東方向へ戻る。頭ヶ島に渡る手前の江ノ浜という集落入口に「坂本龍馬ゆかりの広場」という小園地があり、龍馬の銅像が立っている。
 この地の沖合の「潮合崎」で、慶応2年(1866年)、坂本龍馬が長崎のグラバー邸より購入した洋型帆船「ワイル・ウエフ号」が遭難、座礁し、船長以下12名が死亡した。
 当時、寺子屋事件で受けた傷で薩摩で療養中だった龍馬は、即座に亀山社中の一行を連れて五島に渡り、自ら碑文を書き、土地の庄屋にお金を与えて碑を建立させ、同士の霊を慰め祭ったと言われている。

頭ヶ島へ 9:16

 頭ヶ島大橋を渡り、頭ヶ島へ。本島旅9島目である。
 頭ヶ島集落は、環境を保全するため、パーク&ライドが導入されており、頭ヶ島天主堂のある白浜地区へマイカー等で行く場合は、いったん新上五島空港(現在は定期便なし)に向かい、空港からシャトルバスで向かうことになる。

頭ヶ島天主堂@ 9:48

 シャトルバスは10分もかからず白川地区へ降りていく。客は私一人だ(笑)
 歩いて数分で集落内に入り、正面に石造りの美しい聖堂が見えてくると、思わず声を上げてしまった。
 頭ヶ島天主堂は、世界遺産構成資産の「頭ヶ島の集落」に包括される教会であり、現聖堂は、明治43年(1910年)の着工から10年を費やし完成したもので、鉄川与助の設計・施工による西日本唯一の、また日本全国でも珍しい石造の教会堂であり、国指定の重要文化財である。
 また、教会堂本体とともに付属建物・石垣・石段などが周囲の環境とともに良好に保存されていることから、境内地も重要文化財に追加指定されている。

頭ヶ島天主堂A 9:49

 天主堂の背面。天主堂自身に加え、集落全体の雰囲気が清らかで素晴らしい。早朝の見学時間で人が少なかったのも良かった。
 この後も数多の教会堂を巡ったが、個人的にはこの聖堂の佇まいが一番感銘を受けました。
 頭ヶ島は、幕末までは無人島であったが、明治の初めに、迫害を逃れるため、鯛ノ浦にいた潜伏キリシタンが移住してきて、キリシタン集落が形成された。

頭ヶ島集落を見下ろす 10:07

 再びシャトルバスで空港に戻る。またしても私の貸し切りだ(笑)…
 途中、頭ヶ島集落を一望できるスポットがあり、運転手さんが車を停めてくれた。

「五島灘酒造」さんに寄り道 10:48

 レンタカーに乗り換え、有川方面へ戻るが、途中、「五島灘酒造」さんに寄り道。
 上五島で収穫されたサツマイモのみを使用し丁寧に造られる、代表銘柄「五島灘」をはじめとする本格芋焼酎を爆買いする。
 段ボール一箱分の焼酎(笑)を大阪に送り付けてから、有川に戻る。
 上五島の名物「五島手延べうどん」が食べたかったので、「五島うどんの里」に向かったが、月曜日で定休日だった(涙)…
 仕方がないので、少し町外れの「竹酔亭」さんへ転進。五島列島初の五島うどん専門店らしい。期待が高まる…

「竹酔亭」さんの「地獄焚き」 11:15

 名物「釜揚げうどん」(地獄炊き)を注文。
 10分ほどで、鉄鍋で茹でられた熱々の五島うどん(まさに地獄)と、つけ汁と卵、薬味が運ばれて来た。これで650円。安い!
 まずは、つけ汁のみでうどんを食す。アゴの出し汁が旨すぎる! あとは卵つけと交互に食し、あっという間に完食〜

津和埼灯台 12:06

 中通島の本格的な探索に向かう。まずは一気に島の最北端、津和埼鼻を攻略することにし、細長く伸びる半島を延々とドライブ。
 車道の終点は、椿公園となって整備されており、遊歩道を少し進むと、津和埼灯台が建っている。
 非常に小ぶりな灯台だが、難所として知られる、中通島と野崎島の間の津和崎瀬戸の案内役として、重要な役割を担っている。

小値賀島が見える 12:13

 さすがに中通島の最北端であるだけあって、小値賀島が近い。それにしても平べったい島である。

野崎島も 12:14

 そして、小値賀島以上に間近なのが野崎島。津和埼瀬戸を挟んで、ホンマに目の前。
 2日前、野崎島を歩き回り、自然そのままの光景に触れた時の衝撃が、鮮やかに蘇ってきた。

米山教会 12:26

 車に戻り、往路を戻り南下を開始。教会を手当たり次第に巡る。
 津和埼鼻に一番近いのが、津和埼郷にある米山(こめやま)教会。
 中通島の最北端にある教会で、明治36年(1903年)、他の五島の信徒と同様に、弾圧から逃れて外海(そとめ)地区(長崎市の北西部。五島のちょうど真東辺り)からこの地に移住した信者の希望により聖堂を創建した。その後、老朽が激しくなり、昭和52年(1977年)、建て替えられて、現在に至っている。
 これまで見てきた聖堂とは少し異なるタイプの小ぶりな教会であった。

赤波江教会 12:33

 米山教会の少し南、「く」の字に島が曲がっている箇所の北側からは、南の反対側の海に面した急斜面に赤波江(あかばえ)教会が建っているのが遥かに見えた…

仲知教会 12:40

 赤波江教会の手前、米山教会と同じ津和埼郷に建つ仲知(ちゅうち)教会である。
 仲知教会は、明治14年(1881年)の建設で、昭和7年(1932年)ごろ、少し南の曽根郷にある江袋教会から、この仲知教会が主任教会(監督制をとるキリスト教の諸教会において、教会行政の基本単位が「小教区」で、「小教区」の中心となる教会が「主任教会」と呼ばれる)となった。
 現在の聖堂は、昭和53年(1978年)の建立。この辺りは、ほとんどがカトリック信者で、信者達の多額の拠出と労働奉仕により建てられたという。
 聖堂内は、一面のステンドグラスで装飾されているが、イエスが漁師を弟子とする聖書の場面を表現したステンドグラスには、当時信者の中心として建設に関わった住民も登場している。
 仲知教会を後に、中通島北部を南北に縦断する県道218号線から東へ折れる細い車道を慎重に進むと、赤波江教会の前に出た。

赤波江教会 12:47

 先ほど向かい側から見た通り、海をすぐ眼下に見下ろす急斜面に赤波江教会は建っている。
 禁教が解かれた頃の赤波江集落は、戸数一桁のキリシタン集落だったが、大瀬良宗五郎、赤波江助作、赤波江キタといった熱心な伝道士が出て、周辺のキリシタン集落で活動を行っていた。
 明治17年(1884年)の創建で、昭和46年(1971年)の改修。昔も今も赤波江集落の戸数は僅かであるが、現在まで、現役の教会として使用され続けている。

赤波江教会からの五島灘 12:49

 先ほどと反対のアングル。赤波江教会が海のすぐそばに建っているのが良く分かる。野崎島も良く見える。
 ちなみに、この辺りの入り江の岩が赤いことから、「赤波江」の名がついたらしい…。

江袋教会 12:57

 県道に戻り、すぐ南には江袋教会がある。
 江袋の信徒は、禁教令の高札が撤去された明治6年(1873年)になっても激しい迫害を受けていたが、明治15年(1882年)にはブレル神父(鯛ノ浦教会の初代主任司祭で、明治18年(1885年)、乗船していた船が遭難した際、救助した船の、金に目が眩んだ船員により、信徒12人とともに撲殺された…)の指導と援助のもと、聖堂建設を実現した。
 五島で最古のリブ・ヴォールト天井の木造教会だったが、残念ながら、平成19年(2007年)に焼失した。
 全国からの支援で復元工事が進められ、平成22年(2010年)5月に再建された。

小瀬良教会 13:12

   江袋教会から、しばらく車を南へ走らせると、「小瀬良教会」の標識が建っているが、教会の姿が見えない…
 車を降り、山手を見上げると、急峻な坂道の先に石垣が積まれており、その上に小瀬良教会の姿があった。まるで山城のようだ…
 小瀬良地区は、なかなかカトリックに復帰しなかったキリシタンの多かった地区で、そのせいか、昭和26年(1951年)になって、ようやく建立された。
 ヒーヒー言いながら急坂を登って教会の前に出たが、スマホを車内に忘れて、急坂を2往復(涙)…
 何とか小瀬良教会の見学を終え、県道を少し南に行ったところで右に分岐する細い車道を進む。

大水教会 13:28

   深い森の中を抜けると、一気に視界が開け、集落が見えてきた。ここが中通島最高峰の番岳の北麓に広がる大水集落で、なかなかの秘境である。
 集落に入り、高台に建つ大水教会へ。禁教が解かれた頃の大水は、全く組織化されていないキリシタン集落であり、それで迫害を受けずに済んだ代わりに、カトリックへの信仰復帰は遅れていた。しかし周辺の赤波江集落の伝道師、赤波江助作、赤波江キタらの尽力で、村をあげてのカトリック復帰となった。
 大水教会は、明治14年(1881年)の創建。老朽化により解体され、現聖堂は、昭和60年(1985年)に完成し、現在に至っている。

大水集落 13:34

   大水集落は、「新上五島町北魚目の文化的景観」に含まれている。
 中通島北部の北魚目地域は、沿岸部の浸食地形に立地し漁業を主な生業とする集住形態の集落と、地滑り地形による比較的緩やかな斜面地に立地し主に農業を営む散村形態の集落という対照的な12の集落形態が形成されている。
 大水集落は、番岳北麓の傾斜地に位置する農業集落であり、江戸時代後期に農地開拓・食糧増産のため主に大村藩から農民が移住して形成された。
 開拓を効率的に行うため、「イエワカレ」と呼ばれる均分相続を原則とする独特の相続慣行により、居住地や農地を広げてきた。
 現在も主に甘藷が栽培されており、収穫された甘藷は薄く輪切りにしたカンコロに加工される。カンコロの乾燥には木や雄竹で作られたヤグラが用いられ、ヤグラに隣接してカンコロを茹でるジロが設置される。自家消費用の甘藷はそのまま家屋の地下に設けられたイモガマに保存するなど、甘藷の栽培から加工・保存まで一連の生産に関わる施設が各戸単位で形成され、独特の景観を形成している。

立串集落 13:41

   県道に復帰し、南へ。
 途中、立串という集落の景観が目に留まったので、車を止める。
 このように、小値賀島や福江島など、ある程度平坦な土地がある島と違い、起伏の激しい中通島には、限られた土地にへばりつくように形成されている集落が 多い。
 そして、中通島最高峰の番岳に登る。登ると言っても、林道が山頂直下まで延びており、山頂は園地化されているので、楽勝である。
 曽根集落で県道を離れ、「番嶽温泉」のさらに奥に延びる細い車道に入る。頂上直下に着くまでに、番岳の周囲をほぼぐるっと一周するので、めっちゃ長い…
 登山より、この延々と続く細い車道のドライブの方が、遥かに大変だった。

 番岳登山へ

 慎重な運転で車道を引き返し、曽根集落に戻ってきた。
 番嶽温泉のすぐ南に曽根教会が建つ。

曽根教会 14:18

 曽根地区は、「五島崩れ」の際に、信仰を公にした信徒たちが激しい迫害を受けたところで、初代の曽根教会は、明治32年(1899年)に、曽根地区の長山という地に建てられた。
 そして、昭和41年(1966年)に現地に移転・建て替えられた。この地は東には有川湾、西には東シナ海を一望できる番岳南麓にあり、有川湾に昇る朝日、東シナ海に沈む夕日を同じ場所にいながら眺めることができるという。

青砂ヶ浦教会 14:28

 さらに南下し、奈摩湾と呼ばれる入り江に出ると、一目でわかる正統的な西洋式の赤煉瓦造教会が見えてきた。これが青砂ヶ浦教会である。
 初代の教会は、明治11年(1878年)、江戸時代に外海地方から移住し、潜伏キリシタンからカトリックに復帰した信徒により建設された。
 現存の聖堂は、3代目で、明治43年(1910年)の再建。鉄川与助が手掛けた3つ目の教会堂であり、リブ・ヴォールト天井を持ち、内部壁面は漆喰塗で、側廊窓にはステンドグラスを設ける。この天主堂は内外ともに意匠が優れ、日本人の手になる初期煉瓦造キリスト教建築の代表的作品の一つであり、国指定の重要文化財である。

冷水教会 14:43

 奈摩湾を時計回りにぐるっと回りこみ、逆に北上すると、冷水地区へ。
 冷水地区は、「五島崩れ」で信徒が全くいなくなり、迫害後、平戸や下五島などから信徒が移住してきて、再びカトリック信仰が盛んになった。
 明治40年(1907年)、現在の聖堂が建てられたが、棟梁は当時27歳、冷水出身の鉄川与助で、初めて自ら設計・施工した教会である。
 木造瓦葺きで正面中央に鐘楼をかねた塔屋が置かれた聖堂は質素な造りで、落ち着いた雰囲気を醸し出している。
 奈摩湾を離れ、南へ。中通島はもとより、上五島の中心である青方の市街に入る。

青方教会 14:59

 市街地の一角に、これまで見てきた教会とはスケールが全く違う、巨大な青方協会が建っている。
 青方地区には、1960−70年代にかけて近隣の信徒達が集団移転し、信徒数が急増したため、昭和50年(1975年)に聖堂が建立された。
 そして、平成12年(2000年)に現在の巨大な教会堂に建て替えられている。

大曾教会 15:14

 青方教会を後に、青方湾に沿って西へ向かうと、また見慣れた赤煉瓦の教会が目に入ってくる。大曾教会である。
 大曾地区は、長崎市外海(そとめ)地方からキリシタンが移住してきた地で、初代の教会は、明治12年(1879年)に、現在地より西の裏迫という地に、建てられた。
 現在の教会堂は、鉄川与助の設計施工で、大正5年(1916年)の建築。赤煉瓦造りの重層屋根構造、内部は3廊式でリブ・ヴォールト天井で、長崎県指定の有形文化財である。

青方湾沿いに建つ大曾教会 15:20

 五島の教会全てに言えることだが、海とセットの構図がいかにも映える。
 ここで雨が降ってきたのと、長崎港に向かうジェットフォイルが、中通島南端の奈良尾港17時5分発ということで、おとなしく奈良尾港に向かう。
 奈良尾港のトヨタレンタカーで乗り捨てし、港へ。

ジェットフォイルで長崎へ 17:01

 長崎まで1時間15分! さすがに80km/hで疾走するジェットフォイルの威力は凄い!
 さらば、五島列島! また来ることはあるだろうか…

長崎の夜は「安楽子」さんから@… 19:03

 チェックインを済ませ、町に繰り出す。今回泊まったホテルは、市電の「観光通り駅」に近いので、夜遊びには最適(笑)
 まずは、「安楽子」さんに突撃し、ラッキーにも1つだけ空いていたカウンター席をゲット!
 刺し盛りからスタート!

長崎の夜は「安楽子」さんからA… 19:23

 鯨ベーコン!
 2軒目に行きたかったので、早々に切り上げ…

続いて「はくしか 本店」へ@… 19:52

 おでんの名店、「はくしか 本店」さんへ。
 おでん鍋を囲むカウンターが、いかにもという雰囲気を醸し出している。
 何食べても旨かったが、特に春菊が強烈!

続いて「はくしか 本店」へA… 20:09

 長崎のおでんと言えば、はんぺんは外せない! 糖質制限崩壊(笑)…

続いて「はくしか 本店」へB… 20:27

 わかめと牛筋も絶品!
 そうこうしてたら、元サッカーリオ五輪代表監督で、現在はV・ファーレン長崎の手倉森監督が隣に座ったので、記念撮影をお願いするほか、しばらくお話もでき、サッカーフリークの私としては、忘れられない夜となった…
 長崎の夜、最高!!

 
   

 3/19 曇り後快晴

 昨晩は遅くまで痛飲したので、7時過ぎに起床。遅めのスタートだが、それでも長崎発は、17時51分発の「かもめ」なので、時間はたっぷりある。
 宿泊していたホテルを8時前に出発し、最寄り駅の「観光通り駅」から路面電車に乗り込み、JR長崎駅へ。

 長崎市街散策へ

 長崎駅でお土産を買ってから、改札内へ

「かもめ36号」 17:41

 予定通り、17時51分発の「かもめ36号」で帰路につく。
 「かもめ」車内で、じゃこ天とハイボールで乾杯! 博多経由新大阪まで4時間半の長旅だったが、ご満悦で帰宅した。
 五島列島・長崎を堪能した最高の4日間だった…

 
   

諸国名山探訪

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