−2日でお手軽百名山3連登の一コマ。霧ヶ峰は3回目、美ヶ原は4回目(笑) 霧の霧ヶ峰から一転、美ヶ原では大展望に恵まれる−
山行概要
2023年9月17日(日) | |
霧ヶ峰・美ヶ原 | |
霧後晴れ | |
C、私 | |
車山肩=0:45=車山=0:35=車山肩【1:20】 山本小屋ふる里館=0:10=美ヶ原高原ホテル山本小屋=0:15=塩くれ場=0:10=下降地点=0:30=烏帽子岩=0:25=王ヶ頭・王ヶ頭ホテル=0:40=山本小屋ふる里館【2:10】 |
記録文(写真はクリックで拡大)
9/17 霧後晴れ
4時に起床(笑)し、5時発。薄暗い中、東へ車を走らせる。県道67号線から283号線に入り、三城を経由し、一気に高度を上げ、扉峠でビーナスラインに合流。まずは霧ヶ峰を目指し、南へ進む。
この日も山上はあいにくのガスだったが、瞬間明るくなり、ご来光が拝めた。
さらに少し進むと、蓼科山が見えるポイントがあり、また車を止めて撮影する。
和田峠を過ぎ、さらに南へ進むと、八島湿原の駐車場があり、寄り道する。
トンネルでビーナスラインをくぐり、湿原へ。
私には2年前に来たのをはじめ、馴染みの光景だが、Cはいきなり現れた広大な湿原を見て、興奮していた… そんなもんですか… 私は山の景色に関する感覚がだいぶ麻痺しているようです(笑)…
車に戻り、さらに南へ。観光施設の建つ交差点を左折し、ビーナスラインをそのまま進めば、車山の肩に到着。道の両端にある無料駐車場はほぼ満車で、何とか空きスペースを確保する(他にも駐車スペースがあったが有料で、1回1000円だった…)。
霧ヶ峰最高峰の車山目指し、歩き出す。出発直後の時点では、晴れていたが、すぐにガスに巻かれてしまう…
この時は、すぐに晴れるだろうと、高を括っていたが…
髪の毛がすぐに濡れるほどの濃いガスの中を歩く… 足元は白い芋虫が大量発生しており、めっちゃ気持ち悪い。
結局、ガスは全く晴れぬまま、車山山頂へ。
ガスの中、気象庁の巨大な車山気象レーダー観測所が浮かんでいる。
長野地方気象台から制御・監視を行う遠隔監視レーダーで、老朽化で廃止された富士山レーダーの代替として、静岡県菊川市の牧之原気象レーダー観測所とともに、平成11年(1999年)から運用されている。
アンテナの海抜高度は、地上高12.4mを加え、1937.1mと、運用中の気象庁のレーダーとしては最も標高の高い位置にある。
前回登った時にはあったはずだが、全く記憶が(笑)…
山頂で30分粘ってみたが、結局、ガスは晴れず… すごすごと下山する。
下るに連れて少し明るくはなってきたが、ガスは晴れず、車山肩へ。
向かいの丘の上にけっこうな人の行列ができており、確認すると、ころぼっくるひゅっての入店待ちだった。
8時から営業しており、ボルシチとパンが有名らしい。意識高い系が好みそうな店です…
とりあえず消化不良だったが、霧ヶ峰終了〜 この後のプランAは諏訪大社の四社巡りだったが、下界は35℃近いし、山から降りたくないということで、美ヶ原のプランBに決定! ビーナスラインを戻る。
扉峠から一気に傾斜が強まるビーナスラインを登り詰めると、山本小屋ふる里館前の駐車場に到着。既に満車状態だったが、奇跡的に出発する車あったので、止められた。ふる里館の前を通り過ぎた先で左折し、斜面を下ったところに未舗装の第2駐車場もあるが、ここも満車だった。車が止められない場合は、ここから徒歩20分ほど離れた、道の駅「美ヶ原高原」(有名な美ヶ原美術館がある所)に800台の大駐車場があるので、そこまで行くしかない。
さぁ、トレッキング2Rのスタート!
ふる里館から進むと、すぐに両サイドは牧場となる。
近代牧場としての美ヶ原牧場の開牧は明治42年(1909年)で、東筑摩郡里山辺村(現松本市)の小岩井品三郎が、入山辺・里山辺両村の共有林30町歩を借り受け、松本市内の牛乳屋の乳牛89頭を放牧したのが始まり。牧場の管理小屋はその後、「山本小屋」に発展した。
現在は、400haという広大な牧場に、5月下旬?10月中旬にホルスタインを主体に牛約400頭、馬10数頭が放牧されている。
すぐに、美ヶ原高原ホテル山本小屋が現れ、軽食もやっており、小腹が減っていた我々は、吸い込まれるように中へ…
私は、鹿肉カレーにキノコ汁をオーダー! 景色最高の中で食べるご飯は最高でした。
小屋を後に、王ヶ頭方面へ進んで行くと、不意に、北アルプスの懐かしい面々が姿を現した!
画像では、右端の白馬三山から、五竜、鹿島槍、爺、劔、蓮華、立山、餓鬼岳と、北アルプス北中部の山々が全開で、今日は高山はガスっていると思い込んでいたので、望外の喜びである。
目指す王ヶ頭や美しの塔が見える。
山の詩人として著名な尾崎喜八の「登りについて不意にひらけた眼前の風景に、しばらくは世界の天井が抜けたかと思う」の一節を実感する。
塩くれ場に来た。牧場の彼方に蓼科山が垣間見れる。
上部が皿のようにくぼんだ岩が集積しているが、これは、牛や馬が病気にならないよう、塩分を与えるために利用された場所で、岩の上に置かれた塩を、牛たちが毎日なめ続けたことで、岩の上部がすり減ったらしい。
塩くれ場で、マイクロバスも走行可能なダート道を右に分け、直進し、今度は南の茶臼山に向かうルートを左に分けて、さらに直進すると、三城に下る「百曲コース」の下降地点に出た。
ここは、美ヶ原をテーブルに例えると、テーブルの端に当たる箇所で、目の前は断崖絶壁である。地図で見ると、「百曲コース」のジグザグっぷりが凄いことになっているが、推して知るべしである…
正面には、鉢伏山の山塊が大きい。
下降地点で右折し、「アルプス展望コース」に入る。このルートは、崖沿いに進んで行くので、名の通り、アルプスを眺めながらのハイクが満喫できる。
少し進んだ所から、下降地点を振り返ると、まさに絶壁だ。人も岩頭に立っているが、どこをどう下って行くのか…
私、美ヶ原は4回目だが、このコースに入るのは初めて。槍穂高を眺めながらの極上ハイクで、テンションが上がりまくる↑
そして、ルートのすぐ西側が絶壁なのに対し、東側は何とも穏やかな高原が広がっている。この対比が凄すぎる!
王ヶ頭が徐々に近づいてきた。手前の岩頭は烏帽子岩で、背後は槍穂高だ。
「これより先危険」の道標が立つ分岐を左に進むと、烏帽子岩の突端へ行くことができる。
高度感がヤバ過ぎて、目が眩む…
分岐に戻り、王ヶ頭へ。メインルートがすぐ東側に迫って来て、並行して進む。
振り返ると、烏帽子岩の迫力が凄い。最後の登りを頑張れば、いよいよ美ヶ原最高峰の王ヶ頭だ。
人でごった返す山頂(笑)…
美ヶ原で王ヶ頭と並ぶ双璧ピークの王ヶ鼻がすぐ目の前に見える。槍穂高も健在だ。
王ヶ頭ホテルに移動し、定番のソフトクリームを堪能(笑)
王ヶ頭を後に、メインルートで駐車場に戻る。目を瞑っても歩ける超楽勝コース。最後まで牛を眺めながら美ヶ原を堪能しました。
時間もあるので、扉温泉でひと風呂浴びてから、松本に帰ることに。
扉峠から、扉温泉に直接下る、県道67号線は、土砂崩れで通行止めだったので、往路にも使った、扉峠からの松本市道2725号線、通称「アザレア(松本市の花であるレンゲツツジなどツツジ科植物のこと)ライン」を下って、薄川に出合ったところで、左折し、県道67号線で薄川を遡る(扉温泉までは通行可能だった)。
狭小道路を離合に苦労しながら進むと、日帰り温泉施設の「桧の湯」に到着。入浴料300円という超コスパだ。
扉温泉は、天手力雄命(あめのたぢからおのかみ:天照大神を天の岩戸から引きずり出した神)が、戸隠に天の岩戸を運ぶ途中で休んだとされる神話に由来して名づけられた温泉で、泉質は単純泉で、湯量豊富なため、カラン、シャワーも温泉が使われている。
露天風呂が貸し切り状態だったので、撮影(笑) 露天風呂には、「山辺石」という、この辺りで採れる良質な建築石材が敷き詰められていた。「山辺石」は硬く、松本城の石垣にも使われているらしい。
ほのかに硫黄臭のする温泉を堪能し、松本に戻った。
ホテルで仮眠の後、予約していた中町通りの「草庵」さんへ。
ここもかなりの人気店のようで、始業時間に予約していたが、予約無しでは無理だったようだ…
鮎の一夜干しでスタート! 鮎の一夜干しは初めて食べましたが、旨味が凝縮されてます。
続いて、草庵風冷奴! 昨日も食した、「すんき漬け」がたっぷり載ってます。酸味が病みつきになります…
この日も馬刺しを発注! 部位はロースの1点推しでしたが、旨かった…
ついに来ました、松本と言えば山賊焼き! ジューシーでしたが、もう少しニンニクを効かせて欲しかった…
地酒も発注(酔っぱらい、銘柄は忘却)! おたぐり(馬のもつ煮)もオーダー!
疲れもあったのか、前後不覚となり、ホテルに退却、バタンキューでした…
9/18 晴れ
この日は松本城を見て帰るだけなので、のんびり自然起床。
人気爆発の松本城は始業の8時半に行かないと行列必至なので、8時過ぎにチェックアウトしようと思っていたが、腹が減って仕方がないので、登城後に行こうと思っていたお店に行くためにJR松本駅へ。入場券を買って構内へ(笑)
0番線ホームにある、今年のGWにも来た「榑木川 松本駅店」さんに突入! 駅前にも出店している松本のそばの名店「榑木川」さんの駅そば形態のお店で、「榑木川」さん自慢の石臼挽きの八割そばを使った、駅の立ち食いそばとは思えないクオリティを誇るお店だ。
「かき揚げ山菜玉子そば」をオーダー! 朝から大満足で、城へ歩く。
8時20分には有料ゲートのある高麗門前に着いたが、既に50人ほど並んでいた。
いつ見ても恰好良い天守だが、月見櫓に補修用のシートが被され、姿が見えない… 何と毎年実施されている漆の塗り直しとのことで、知りませんでした… 残念…
入城する。高麗門とともに巨大な枡形を形成している櫓門の黒門をくぐると本丸だ。
黒門は、本丸防衛の要の門で、昭和35年(1960年)の復興。再建に際し、図面が無かったので、名古屋城の渡櫓門を参考にしたとされている。
黒門をくぐると、かつては本丸御殿が建っていた。御殿に通じる格調高い正式な門ということで、当時の最高の色調であった黒の名を冠したとされている。
本丸御殿跡から天守を拝む。このアングルなら月見櫓の修理シートは見えない(笑)
松本城は、現存12天守、かつ、国宝5天守の一つで、12天守のうちで唯一の平城である。
築城時期は、戦国期の永正年間(1504−20年)、信濃守護家小笠原氏(府中小笠原氏)が林城(松本城南東の里山辺にある山城)を本拠として築城し、その支城の一つとして深志城を築城したのが始まりといわれている。
その後、武田信玄の侵攻を受け、当時の守護、小笠原長時は追放され、信玄の家臣、馬場信春の居城となったが、織田信長により武田家が滅亡後は、信長に仕えていた木曾義昌に与えられた。
本能寺の変後、徳川家康の配下に収まっていた小笠原貞慶(長時の三男)が所領を回復され、小笠原家が復活するも、家康の関東移封に伴い、小笠原秀政(貞慶の嫡男)も下総国古河へと移った。
その後には、徳川家を出奔した石川数正が10万石で入城し、数正とその子康長が、天守を始め、城郭・城下町の整備を行い、現在に至る城下町の基礎が築かれた。
江戸期になり、石川家が大久保長安事件に連座させられる形で改易されると、慶長18年(1613年)11月に小笠原秀政が再び入城し、信濃守護家の流れを汲む小笠原家が松本に三度の復活となった。
大坂の陣における軍功で、小笠原忠真(秀政の次男)が明石に加増転封後は、戸田松平家が入ったが、その後、藩主は、雲州松平家、堀田家、水野家と転々とし、享保10年(1725年)9月、水野家6代目の忠恒(ただつね)が刃傷沙汰を起こし、改易されると、同年10月に戸田松平家が再び入封され、明治まで続き、松本城も役目を終えた。
天守最上階の6階へは、狭く急な階段が延々と続き、骨が折れたが、眺望は最高でした。
松本城は典型的な平城で、本丸、二の丸、三の丸ともほぼ方形に整地され、南西部に天守を置いた本丸を、北部を欠いた凹型の二の丸が囲み、さらにそれを四方から三の丸が囲むという、梯郭式に輪郭式を加えた縄張りとなっている。
複合連結式層塔型の天守は、寛永10年(1633年)の改築で、5重6階の大天守を中心に、北面に乾小天守を渡櫓で連結し、東面に辰巳附櫓・月見櫓を複合した複合連結式天守である。
辰巳附櫓・月見櫓は、3代将軍徳川家光が善光寺参拝の途中で、松本に立ち寄るという内意を受けたため、当時の藩主松平直政が建てたもので、赤い欄干を配した風雅な雰囲気を持ち、天守に付属する月見櫓としては唯一の遺構である。
天守は、明治5年(1872年)に競売にかけられ、解体の危機が訪れたが、地元有力者らが、天守を借りて筑摩県博覧会を開催し、その収入等を活用して天守を購入したため、難を逃れた。
また、明治30年代(1897年〜)頃から、天守台の中に埋めこまれた16本の支持柱の老朽化により、天守が大きく傾き始めたが、これを憂いた地元有力者により「松本天守閣天主保存会」が設立され、広く修理費の寄付を募り、「明治の大修理」が行われた。
昭和11年(1936年)には国宝に指定され、その後も戦災に遭うこともなく、天守は現存している。
松本城跡の探索終了〜 これにて3連休の行動予定終了。順調に高速道路を通行し、京都には13時過ぎには帰着した。
参考タイム
9/17 | 車山肩 6:45 ⇒ 7:30 車山 8:00 ⇒ 8:35 車山肩 山本小屋ふる里館 9:30 ⇒ 9:40 美ヶ原高原ホテル山本小屋 10:00 ⇒ 10:15 塩くれ場 10:20 ⇒ 10:30 下降地点 10:30 ⇒ 11:00 烏帽子岩 11:00 ⇒ 11:25 王ヶ頭・王ヶ頭ホテル 11:50 ⇒ 12:30 山本小屋ふる里館 |
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