百舌鳥古墳群散策

−巨大古墳が集まる百舌鳥古墳群をぐるっと周遊−

   

山行概要

日 程
2023年4月8日(土)
山 域
百舌鳥古墳群
天 気
曇り
メンバー
単独
コースタイム
大阪メトロなかもず駅=0:15=ニサンザイ古墳=0:15=百舌鳥八幡宮=0:20=いたすけ古墳=0:15=履中天皇陵拝所=0:40=仁徳天皇陵拝所=0:30=反正天皇陵拝所=0:05=南海堺東駅【2:20】

記録文(写真はクリックで拡大)

 先週訪れた馬見古墳群が面白かったので、巨大古墳が集まる世界遺産の百舌鳥古墳群に向かってみることに。
 枚方を始発で出撃し、大坂メトロなかもず駅から6時20分に歩き出す(笑)… まずは駅から南西に伸びる府道28号線の一つ東側の筋を進んでいく。

ニサンザイ古墳 6:35

 目の前に大古墳が見えてきた。これが前方後円墳のニサンザイ古墳で、5世紀後半の築造とされ、墳丘長:約290m(発掘調査に基づく推定復元約300m)、後円部直径:約156m、同高:約25m、前方部幅:約224m、同高:約26mの規模を誇り、推定復元の大きさを採用すると、全国7位の大きさであり、百舌鳥古墳群の中では3番目である。結果的に、この日見学した古墳の中では一番見栄えが良かった。
 第18代反正天皇の空墓の陵墓参考地とされているが、同じ百舌鳥古墳群で反正天皇陵に比定されている田出井山古墳に比べ、ニサンザイ古墳の方が約4倍も大きいことから、本古墳を反正天皇陵とする説もある。
 「ニサンザイ」という名称は奇妙だが、明治になってからの呼称であり、元禄13年(1700年)刊行の「泉州志」では、単に「山稜(ミササキ)」と記されており、この名が転訛したものではないかと考えられている。

尾羽根天満宮 6:46

 府道28号線を横断し、細い路地を北西に進む。途中、住宅の間にこじんまりと尾羽根(おばね)天満宮が鎮座する。
 尾羽根天満宮は、約300年ほど前に、道明寺天満宮から分祀された神社で、道明寺の尼僧が代々管理していたという。神仏分離令で周辺の神社は、百舌鳥八幡宮に合祀されたが、この神社だけは、この地に残ったとのこと。
 現在の社殿は、平成9年(1997年)に再建された。
 尾羽根天満宮から北に向かい、百舌鳥川に突き当たると、川沿いに東に進んで百舌鳥天満宮だ。

市杵島社 6:50

 本殿へ続く参道を北に進むと、本殿へ続く石段の手前の西側に大きな池があり、その中に楕円形の島がある。
 この島へは橋で渡ることができ、島の北側には百舌鳥八幡宮の摂社の一つ、市杵島(いちきしま)社が鎮座する。
 朱鳥居が建ち、玉垣に囲われた区画内に本瓦葺の妻入切妻造の社殿が建っている。
 島の西側の池の中には、同じく摂社の「水神社」がポツリと鎮座している。

百舌鳥八幡宮と楠の巨木 6:52

 石段を登って本殿に参拝。5年前に西高野街道をやって以来の参拝だ。
 百舌鳥八幡宮は、神功皇后が三韓征伐の帰途、この地において「幾万代まで天下泰平民万人を守ろう」との御誓願を立てたとし、八幡大神の宣託をうけて欽明天皇(532−71年)の時代、この地を万代(もず)と称したのがきっかけと伝わる。
 平安時代には僧坊48ヶ寺、社家360人、神領寺領800町歩を擁する大社となるが、保元3年(1158年)時点では石清水八幡宮の別宮となっていたとの記録がある。
 戦国期の戦乱や、慶長20年(1615年)の大坂夏の陣などで荒廃するが、社歴は続き、幕府の大坂城代は、交代する度に当社に参拝するのが通例であったという。
 現在の社殿は、本殿が享保11年(1726年)、拝殿が文政13年(1830年)の建立で、昭和46年(1971年)に改修された。
 社殿前に大楠が立つ。樹齢700〜800年、樹高約25m、幹周約5.2mの巨木であり、大阪府の天然記念物に指定されている。

高林家住宅 6:56

 石段を下り右折し、細い路地を西へ進むと、大きな屋敷が建つ。これが高林家住宅である。
 高林家は、和泉国にあった徳川御三卿の一つ清水家の領家33村の内、11村を占める大庄屋で、苗字帯刀を許される名家だったという。
 主屋等4棟及び土地が重要文化財に指定されている。

御廟山古墳 7:03

 高林家住宅からすぐ北に御廟山(ごびょうやま)古墳がある。
 御廟山古墳は、前方後円墳で、5世紀前半の築造とされ、墳丘長:約203m、後円部直径:約113m、同高:約18m、前方部幅:約136m、同高:約18m、全国35位の大きさであり、百舌鳥古墳群の中では4番目である。
 実際の被葬者は明らかになっていないが、宮内庁により「百舌鳥陵墓参考地」(被葬候補者:第15代応神天皇)として陵墓参考地に治定されている。また、濠は国指定の史跡である。
 遊歩道が古墳周囲を巡っており、反時計回りに進んでいく。

いたすけ古墳 7:15

 御廟山古墳から西に路地を進むと、いたすけ古墳が現れる。
 いたすけ古墳も、前方後円墳で、5世紀前半の築造とされ、墳丘長:約146m、後円部直径:約90m、同高:約12m、前方部幅:約99m、同高:約11m、百舌鳥古墳群の中では8番目に大きい古墳である。
 この古墳は私有地であったため、昭和30年(1955年)、土砂の採集と住宅造成のため破壊されることになったが、市民運動が発足して保存された。その際、後円部から出土した衝角付冑の埴輪は、堺市指定の有形文化財であり、市の文化財保護のシンボルマークになっている。
 いたすけ古墳のすぐ西にJR阪和線が通じており、踏切を渡ってしばらく線路沿いに南西に進み、右折して住宅地の中を北西に進むと、巨大な履中天皇陵(上石津ミサンザイ古墳)が現れる。

履中天皇陵拝所 7:30

 時計回りに古墳に沿って進み、古墳南端の拝所へ。
 履中天皇陵は、5世紀初頭の築造とされ、墳丘長:約365m、後円部直径:約205m、同高:約28m、前方部幅:約235m、同高:約25mを誇り、仁徳陵、そして古市古墳群の応神陵に次ぐ全国3位の巨大前方後円墳であり、百舌鳥古墳群の中では2番目である。
 名称の「ミサンザイ」は「ニサンザイ」古墳と同様に「ミササギ(陵)」の転訛したものと考えられている。
 大阪湾からの眺望を意識し、場所の選定と墳丘の方向が決められたと考えられ、海から良く見えるように、かつての海岸線と墳丘主軸線を平行させるように、前方部を南に向けて築造されている。
 宮内庁により、履中天皇の陵墓に比定され、宮内庁が管理している。

北側の展望台からの履中天皇陵 7:44

 拝所から、引き続き、時計回りに進み、古墳の西側から北側へ。北端の前には展望台があり、履中陵が一望だ。
 履中陵の南端から北端まで15分もかかった…

寺山南山古墳 7:48

 履中陵から仁徳陵の周辺は、陪塚が多い。
 寺山南山古墳は、履中陵のすぐ北東に位置し、墳丘長辺:約45m、墳丘短辺:約39m、高:約5mの方墳で、5世紀初め頃の築造と目されている。
 かつては墳丘の周りに濠が巡らされ、その一部は履中陵の外濠と重なることから、同古墳と関わりが深い陪塚と考えられている。

七観音古墳 7:48

 寺山南山古墳の北向かいの大仙公園の南出入口付近に七観音古墳がある。
 七観音古墳は、履中天皇陵の外周部分に位置するため、陪塚と考えられている。
 直径:約33m、高:約4mの円墳で、5世紀前半の築造と推定されている。

旗塚古墳 7:58

 七観音古墳の東には旗塚古墳がある。
 旗塚古墳は、前方後円墳の一種である帆立貝形古墳で、後円部が前方部に比して大きい造りで、文字通り帆立貝の形状に似ている。
 墳丘長:約58m、後円部直径:約42m、同高:約4m、前方部幅:約25m、同高:約1mで、出土した円筒埴輪と石見型盾形埴輪から、5世紀中頃の築造と推定されている。

グワショウ坊古墳 8:00

 旗塚古墳の東隣にはグワショウ坊古墳がある。
 長軸:約61m、短軸:約56m、高:約4mの卵型の変形円墳で、円墳の中では仁徳陵の陪塚とされている長軸:約62mの大安寺山古墳に次ぐ大きさで、全国的にも有数の規模を誇る。
 円筒埴輪、形象埴輪、須恵器、ミニチュア鉄鍬等の出土物から、5世紀後半の築造と推定されている。

原山古墳跡 8:04

 旗塚古墳から広場を挟んで東側に原山古墳跡がある。
 原山古墳は直径25mの円墳で、墳丘は昭和30年(1955年)に工事のため消滅しており、以来正確な場所が分からなくなっていたが、平成10年(1998年)の調査で周濠が見つかり、位置及び規模が判明した。5世紀中頃の築造と考えられている。
 現在その元位置には古墳をイメージした小さな丘が築かれている。以上の経緯から、他の古墳と異なり史跡には指定されていない。

鳶塚古墳跡 8:04

 原山古墳跡のすぐ北西隣に鳶塚古墳跡がある。
 鳶塚古墳は、5世紀中頃から後半の築造とされ、直径21mの円墳で、墳丘は原山古墳と同様に昭和30年(1955年)に工事のため消滅したが、周濠があったことは判明しており、原山古墳と同様、元位置には古墳をイメージした小さな丘が築かれているが、これまた原山古墳と同様、跡地扱いなので史跡には指定されていない。

仁徳天皇陵拝所 8:10

 大仙公園を北に抜けると、いよいよラスボスの仁徳天皇陵(大仙陵古墳)の拝所へ。
 仁徳天皇陵は、5世紀前期から中期の築造とされ、墳丘長:約486m、後円部直径:約249m、同高:約36m、前方部幅:約307m、同高:約34mを誇る超巨大サイズの前方後円墳であり、日本最大の古墳にして、世界最大級の墳墓である。
 実際の被葬者は明らかでないが、宮内庁により第16代仁徳天皇の陵墓に比定されている。
 仁徳陵の西側を北上する。かつて熊野古道紀伊路をやった際に歩いた箇所だ。

銅亀山古墳 8:16

 仁徳陵西側の遊歩道を北上し出してすぐに、道の西側に古墳が現れる。
 銅亀山古墳という一辺約26mの方墳で、高さは約5m。十数基とされる仁徳陵の陪塚の中では数少ない方墳の一つである
 銅亀山古墳の墳丘と仁徳陵外濠との間には濠状の遺構が存在しており、ここから円筒埴輪が出土したことから、築造年は大山陵古墳の築造最終段階の5世紀中頃と推測される。
 墳丘は、宮内庁により「仁徳天皇陵に号飛地」として管理され、世界文化遺産の構成資産の一部として登録されている。

竹内・西高野街道分かれ 8:34

 仁徳陵の北端で、R310を歩道橋で渡り、南海高野線も渡ると、住宅街の中を北西に進む。
 カラー舗装されている三差路が現れるが、これが竹内街道(左)西高野街道の分かれで、さらに熊野古道紀伊路も重複区間となっていることから、全て歩いた私には4度目の通過であり、非常に感慨深い。
 高野街道の最初の里石である13里石が地蔵堂前に立っている。
 左の竹内街道に入るが、すぐに熊野古道紀伊路が左に分岐するので、紀伊路を北上する。

反正天皇陵拝所 8:40

 大阪の名門公立校の三国丘高校の東側を北上し、細い路地に入ると、反正天皇陵(田出井山古墳)が現れる。
 反正天皇陵は、出土品から5世紀後半頃の築造とされ、墳丘長:約148m、後円部直径:約76m、同高:約13m、前方部幅:約110m、同高:約15mで、百舌鳥古墳群では7番目の大きさで、仁徳陵、履中陵とともに、百舌鳥三陵の一つである。
 仁徳陵や履中陵と同様、大阪湾からの眺望を意識し、場所の選定と墳丘の方向が決められたと考えられ、台地の西縁部に等高線と墳丘主軸線を並行させるように前方部を南に向けて築造されている。
 くびれ部の西側のみに造り出しが作られ、盾形の内濠を有し、現在は一重の周濠だが、発掘調査により、築造時は外濠のある二重の周濠であったと判明している。
 宮内庁により「百舌鳥耳原北陵(もずのみみはらのきたのみささぎ)」として第18代反正天皇陵に治定されているが、百舌鳥三陵の中で、他の2つと比べて規模がかなり小さいことから、天皇陵であることを疑問視する意見も多く、宮内庁もニサンザイ古墳を反正天皇の陵墓参考地にしている。

「和魂創彩 たろやん」さんで朝呑み(笑)@! 8:56

 反正天皇陵から南海堺東駅はすぐ近く。本日の歩行終了。堺市役所の近所に「たろやん 本店」さんという居酒屋があり、何と24時間営業であることを調べていたので、真っすぐにこちらへ。
 9時前からの生中(笑) 最高!

「和魂創彩 たろやん」さんで朝呑み(笑)A! 9:05

 とりあえずの、わさびきゅうり。絶妙なわさびの和え加減が最高です。

「和魂創彩 たろやん」さんで朝呑み(笑)B! 9:08

 造り盛り! 特に明石タコが絶品でした。

「和魂創彩 たろやん」さんで朝呑み(笑)C! 9:19

 とん平焼き! ボリューム満点で、これで仕上がりました…

「鳥の巣 京橋」さんをハシゴ! 11:08

 意識混濁のまま、京橋に移動し、気が付けば、「鳥の巣 京橋」さんに入店していた(笑)
 串カツサイコー!

「ユニコーンガンダム」が爆裂! 15:46

 パチンコ屋に吸い込まれ、気が付けば「ユニコーンガンダム」を打っていた…
 いつもなら、すぐに2、3万円溶かす私だが、この日は違った。あれよあれよという間にユニコーンRUSHに突入し、レア役引きまくりで、何と継続率99%の最強上乗せ特化ゾーンの覚醒RUSH(HYPER)に突入し、3200枚オーバーの大勝利!
 上機嫌で帰宅した。

参考タイム

4/8大阪メトロなかもず駅 6:206:35 ニサンザイ古墳 6:356:50 百舌鳥八幡宮 6:557:15 いたすけ古墳 7:157:30 履中天皇陵拝所 7:308:10 仁徳天皇陵拝所 8:108:40 反正天皇陵拝所 8:408:45 南海堺東駅

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