−善光寺街道歩き3日目 雨が降り出す前に戸倉に滑り込み−
山行概要
2022年5月1日(日) | |
善光寺街道 | |
曇り後雨 | |
単独 | |
JR上田駅=0:25=上田大神宮=1:25=鼠宿跡(會地早雄神社)=1:05=しなの鉄道坂城駅=1:10=しなの鉄道戸倉駅【4:05】 |
記録文(写真はクリックで拡大)
どんよりとした曇天の下、上田駅を出発。雨が降り出す前に歩き終わりたい。若干焦り気味での出発…
さぁ、北国街道歩き再開だ。駅から「ローソン上田中央一丁目店」に進み、北国街道に復帰、しばらく北に進み、「横町」交差点で左折、西に商店街を進んで行く。「中央2丁目」交差点で右折し、北へ進み「中央3丁目」交差点を左折。この辺り、町の防衛のためか、街道は折れ曲がって進む。
「中央3丁目」交差点左折後、最初の辻を右折すると、一気にタイムスリップし、古い街並みが続く。
ここが柳町で、かつては柳の木が多かったことから、この名が付いたようだ。
この通りに旅籠屋や商家が軒を連ね、往時は呉服屋だけでも25軒あったという。面影を残す街並みは白い土塀に格子戸のある家が並び、江戸の初期から造り酒屋を営んできた「岡崎酒造」など、昔からの店舗の他に、古民家をリノベーションした焼き鳥やベーカリーなどが並んでいる。
6年前に昼からここで焼き鳥とビールで酔っぱらったなぁ(笑) 残念ながら、この時間なので、今日は素通り。町並みだけを眺める。
柳町を縦断し、矢出沢川の手前で北国街道は左に折れ、西に進むが、そのまま真っすぐ進みR8を横断した先に上田大神宮があるので、少し寄り道。
上田大神宮は、明治3年(1870年)、「日本古来の神道を大いに宣揚すべし」と、明治天皇が「大教宣布の詔」を発布されたことを受け、内務省神奉局が全国に31の教区を設置し、長野は19区となったが、長野の神道の本拠地として、上田丸堀の地に、第19区神宮教院長野本部を設けたのが上田大神宮の起源である。
明治19年(1886年)、新田柳町の現在地に、八千坪余に及ぶ広大な社地が奉納され、伊勢神宮と同じ神明造りの規模が1/3の大きさの社殿の建立が計画され、5年の歳月を経て、明治24年(1891年)4月、完成した。伊勢神宮から大宮司を迎え、盛大に神宮御分霊の鎮祭式典が奉行され、名実ともに県内外の伊勢信者の中心御柱として、重きをなすに至った。
また南に戻って、矢出沢川を渡って右折し、街道筋を西へ進む。
矢出沢川に突き当たるところが枡形にようになっていて、右・左・右と進路を変え、北に進んで、R18に合流する。
100mほど国道を進み、「常磐城4丁目」交差点の手前で、右斜めに分かれる脇道が旧街道筋なのでそちらへ。
脇道に入った北側に正福寺が建つ。
天平14年(742年)、行基上人の開山と伝えられる。境内の観音堂には珍しい養蚕にまつわる仏様が祀られているとのこと。
正福寺の西隣には長昌寺が建つ。
長昌寺は、飛騨守小林長昌が信玄に追われ、この地で出家し、「小林堂」を創建したのが始まりとされる。
本尊の大日如来像は、長昌の守り本尊であった。
山裾に沿って、静かな街道筋を淡々と進んで行く。
画像は西上田駅近くの「塩尻村」辺りの街道筋の様子。R18と並行したり、R18を直接歩いたりを繰り返すうちに、坂城町に入った。
街道は山裾を巻くように、右にカーブする。ここは「岩鼻」と言い、断崖が千曲川に落ち込み、善光寺街道一の難所と言われた。
加賀100万石の前田公は、ここを無事通過すると、国許に「無事通過」の飛脚を出したという。
「岩鼻」を通過すると、街道は北に進むようになった。何度目かの国道合流ポイントに會地早雄(おおじはやお)神社が建つ。
會地早雄神社の創建は不詳だが、伝承によると景行天皇40年(110年)、日本武尊が東征を完遂し、凱旋帰国するため当地で宿営した際、月灯で険しい厳石を寝ずに見ようと、自ら御幣を立て、大己貴命の分霊を勧請し、「鼠大明神」として祭ったと伝わる。
その後、白鳳4年(674年)に熊野権現が出現した事から合祭して祭るようになったとのこと。
寛政5年(1793年)に社号を「会地早雄神社」に改め、現在に至る。
この辺りは、鼠宿跡であり、上田宿と坂木宿の間宿(松代藩の私宿)として整備された宿場町である。この辺りは難所の「岩鼻」があったため、旅人や物流業者はその中継地として鼠宿を利用したという。
幕府から正式な宿場町として認められていなかった為、形式的な本陣や脇本陣、旅籠などは設けられず、御茶屋が藩主の休息や宿泊を担当し、馬宿や茶屋が旅人達の休息場となっていた。
この地は上田藩と松代藩の藩境だったこともあり軍事的拠点として重要視されており、松代藩は口留番所を設置して人物改めや物資の出入りを取締ったという。
往時は宿場の南北に枡形があり、多くの町屋が軒を連ねていたが、明治以降、国道が通り道路拡幅などが行われ、当時の雰囲気は失われている。
「新地」という交差点の少し先で旧街道は右手に別れる、静かな間道を北に進んで行く。
人通りほとんどない、静かな街道歩きである。画像は金井集落辺りの光景。しなの鉄道のテクノさかき駅の真東に当たる箇所である。
再び国道に合流し、中之条という集落に中條神社が建つ。
決して大きくはない神社だが、春秋の例祭は盛大に行われているようだ。社殿横にケヤキの大木ががある。
中條神社の少し先で今度は西側に街道筋が分かれる。すぐに国道を横断し、東側の側道へ。
県道と交差する東南隅に
この墓所は、第三代坂木代官の長谷川安左衛門利次が、名家遺跡の忘失を憂え、戦国の雄、村上義清(北信濃の戦国大名で、信玄を2度撃退するなど、勇猛を誇った)公の墓所建設を思いたち、明暦3年(1657年)、義清公の玄孫義豊や村上氏の臣出浦氏の子孫、正左衛門清重らに諮り、自ら施主となって出浦氏所有の墓地に、義清公供養のための墓碑「坂木府君正四位少将兼兵部小輔源朝臣村上義清公神位」を寄進によって設立したものである。
その後、寛保2(1742年)年、清重の子清平が玉垣を築き、寛政3年(1791年)年には、清平の子清命が、石柱「御墓所村上義清公敬白」を建てた。
昭和45年(1970年)以来、整備が重ねられ、昭和47年(1972年)、墓碑の上屋と鉄柵が設置された。
村上義清公墓所の少し先で、街道は直角に左折、坂木宿に入ってきた。坂城駅前で直角に右折、枡形のようである。
駅から北に延びる街道沿いには古い民家が並ぶ。
坂木宿の成立は、慶長8年(1603年)から北国街道が整備された慶長16年(1611年)の間と考えられている。坂木宿には高田藩・坂木藩の陣屋がおかれ、近世行政上の中心となっていた。
この地では江戸時代から煙草栽培が行われていて換金作物として普及していが、幕末からは財政難に陥っていた松代藩が養蚕を推奨したため、養蚕業が大いに栄えた。
このため、坂木宿跡には、切妻造り平入り、中2階建・2階建の間口の広い重厚な建物が並んでおり、袖卯建を備えた家、養蚕が盛んだった頃の屋根に大きな空気抜きを備えた家、煙出しを備えた家、千本格子を備えた家等などが残っている。
枡形を抜け、坂木宿跡を出る。すぐにR18に合流し、千曲川を左手に見ながら、西に進んで行く。
画像は笄橋の手前付近。昔、この辺りでは「笄の渡し」があったところだ。
天文22年(1553年)、村上義清の居城である葛尾城が武田信玄に攻略され、義清の妻は義清と離れて村上氏の出城「荒砥」城へと逃げのびたが、途中、この場所の渡し場に差し掛かった際に、渡し場の船頭に舟を出すように願い出たところ船頭は心良く舟を出して妻は無事に対岸に渡り荒砥城に逃げのびた。そのお礼に妻はかんざしの一種である笄(こうがい)を船頭に差し出したことから、以降、「笄の渡し」と呼ばれるようになったという。
さらに北西に方向を変えながら進んで行くと、街道右手に泉徳寺が現れる。
境内には、宮本虎杖(下戸倉出身の俳人)の句碑が立っていた。
泉徳寺の少し先で右手の脇道に入り、すぐ千曲市に入り、上戸倉の宿場町跡に入る。
幕府が宿場を制定した当時は上戸倉、下戸倉合わせて一宿だったのが、1622年(元和8年)の分村に際して分離したらしい。
画像は、上戸倉の本陣を務めた小出家の屋敷跡。
本陣跡の先でR18に合流し、以降、戸倉駅まで国道歩きが続く。ついに雨が降り出してきた。スピードを速める。
幸いにして、下戸倉の宿場跡は真ん中を国道が貫通し、江戸期の面影を残すものは少ないため、戸倉駅まで寄り道することなく、一気に到着した。ここで本日の歩行終了〜 本降りになる前に到着できて良かった。
参考タイム
5/1 | JR上田駅 6:10 ⇒ 6:35 上田大神宮 6:35 ⇒ 8:00 鼠宿跡(會地早雄神社) 8:00 ⇒ 9:05 しなの鉄道坂城駅 9:05 ⇒ 10:15 しなの鉄道戸倉駅 |
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