熊野古道紀伊路その10(御坊〜岩代)

−いよいよ海沿いの道へ。汐風を浴びながらの快適ハイク−

   

山行概要

日 程
2015年11月21日(土)
山 域
熊野古道紀伊路
天 気
晴れ
メンバー
単独
コースタイム
JR御坊駅=0:15=湯川子安神社=0:45=岩内王子跡=0:30=塩屋王子神社=0:25=祓井戸観音寺=0:15=清姫の草履塚=0:05=はし長=0:35=上野王子跡=0:05=清姫の腰掛岩=0:35=津井王子跡=0:30=斑鳩王子社=0:10=切目王子社=0:10=JR切目駅=0:10=中山王子神社=0:30=徳本上人名号碑=0:15=有馬皇子結び松の記念碑=0:10=岩代王子跡=0:05=JR岩代駅【5:30】

記録文(写真はクリックで拡大)

 今年の年頭からけっこうな勢いで、御坊まで歩んできた熊野古道紀伊路(直前区間の記録は、その9(湯浅〜御坊))へ。さすがに暑い時期は避けてきたが、ようやく適した気候になってきたので、半年ぶりの再開である。

 京都からだいぶ遠くなってきたので、今回は車で向かう。京都を始発で出発し、枚方の実家で車を拝借してから、御坊に向かったが、9時前には到着することができた。第二京阪と阪和道さまさまである。

 前回も利用した、スーパー銭湯の「宝の湯」さんへ。大駐車場完備なので、後で利用させてもらうことにして止めさせてもらう(すいません)。
 熊野古道へは、ここから歩き始めた方が効率的なのだが、前回のゴール地点である、JR御坊駅から歩き始めないと、何か気持ち悪い。と言う訳で、北へ500m弱ほどの駅へいったん戻ってから、9時過ぎにスタート。

湯川子安神社 9:25

 駅から少し東に向かい、前回も歩いた重力踏切の前で右折し、南下すると、改装中の湯川中学校があり、すぐに湯川子安神社が南に現れる。
 中世、この地を支配していた湯川直春が現在地に子安大明神神社として祀ったことに始まる。 現在も安産の神様として有名。
 境内地一帯は湯川氏の平城(小松原館)跡だそうで、水堀の一部が残存している。写真には写っていないが、本殿のある石垣の下に千年樟と呼ばれる大樟がある。

日高川を渡る 9:47

 湯川子安神社からすぐ南の九品寺で県道に出、車道をしばらく進むと、野口新橋で日高川を渡る。しばらく左岸の堤防を歩き、左へ下り、集落の中へ。
 静かなまち歩きを楽しんでいると、不意に岩内王子跡が現れる。

岩内王子跡 10:10

 藤原宗忠(藤原北家中御門流の権大納言藤原宗俊の長男。従一位・右大臣)が摂関政治から院政への過渡期の政治上の要事を克明に書き留めた「中右記」には、この辺りから塩屋までの道が日高川の増水で通行不能になったとあるなど、しばしば日高川の氾濫による水害を受けていたようで、元の社地が水没したので新たに也久志波王子として岩内王子を祀ったと「紀伊続風土記」(江戸幕府の命を受けた紀州藩が、33年の歳月をかけて、天保10年(1839年)に完成した紀伊国の地誌)は伝える。他にも岩内王子は焼芝(薬師場)王子とも呼ばれた。本来の社地は現在は日高川の中にあったとされる。
 明治41年(1908年)、熊野神社(御坊市熊野)に合祀された。

塩屋の集落 10:41

 ゆるやかに下り、琴野橋へ。塩屋王子へは複数のルートがあったらしいが、私は山越えコースを取ることにし、琴野橋から山手へ登っていく。極楽寺の辺りは懐かしい山村風景が広がる。また下ると河南中学校の前を通り、そして新しい宅地の分譲地が現れる。マップに従い、注意深く進むと、左に細い地道の分岐があり、これをしばらく下ると、風情ある町並みが続く塩屋の集落に出る。

塩屋王子神社 10:45

 塩屋王子跡である塩屋王子神社は、王子川の畔に建つ。
 塩屋王子は、王子社の中でも古く最初に出来た格式の高い七王子の中の一社で、後鳥羽院の熊野御幸に随行した歌人、藤原定家が書き残した日記「熊野道之間愚記」建仁元年(1201年)10月11日条に参詣の記事がある他、「民経記」(民部卿勘解由小路(かでのこうじ)経光の日記。全46巻で、闕失部分はあるが,鎌倉時代中期の公家社会の行事が克明に記されている重要史料)や、仁和寺蔵の「熊野縁起」にその名が見られる。
 近世から現在も「美人王子」と呼ばれ、名の由来として、祭神の大日貴神(天照大神)の神像が美人であるからという説や、白河院が熊野参詣の途上で歌会を催したことに見られるような景勝地であるからという説(「和歌山県聖蹟」)などがある。

ついに海沿いへ! 11:09

 塩屋集落を抜けると、いよいよ海沿いのコースとなる。祓井戸観音寺の辺りは高台を進むため、海が一望できる。
 天満橋からはるばる南紀までやってきた実感が湧いてくる。今日は小春日和と言うか、それ以上の陽気で、Tシャツでも暑いくらいの気候であり、海浜ウォークの気分満点である。

清姫の草履塚 11:25

 のんびり南下を続けると、清姫の草履塚が現れる。
 安珍清姫伝説の清姫が、この場所にあった松の大木にのぼり安珍の行方を見渡し捜したところ、安珍が日高川を渡っているのが見えたため清姫は、草履を脱ぎ捨て裸足になり追いかけたと伝えられている。
 現在は松の木はなく、石碑が立つのみである。

壁ケ崎海岸 11:27

 そして、さらに海沿いを進むと、風光明媚な壁ケ崎(かべござき)海岸が現れ、そのすぐ先に、海産物卸商の「はし長」さんが登場!

「はし長」さんのアジ姿造り定食 11:42

 新鮮な魚や干物を直売しているが、壁ケ崎海岸が一望の展望喫茶室で、食事も可能ということで、昼から、アジの姿造り定食とビールでご満悦…
 これで1000円とコスパは秀逸。

名田町野島集落辺り 12:11

 ほろ酔い加減で、歩行を再開。朗々とした陽当たりの良い海岸ルートが続く。11月下旬と言うのに、かなり日焼けしてそうだ。
 名田町の野島集落辺りは、懐かしい町並みが続く。

上野王子跡 12:35

 次の上野王子跡は、名田漁民センターの横にひっそりと石碑だけが立っていた。
 上野王子は、「熊野道之間愚記」の建仁元年(1201年)10月10日条に「次うへ野王子」とあるほか、「民経記」承元4年(1210年)4月26日条にも参詣の記がある。
 王子の位置については、もとは少し手前にある現在の「仏井戸」附近にあったが、参詣道の移動した江戸時代初め頃に現在地に移ったと伝えられている。
 しばらくR42沿いに進む。畑野崎を越える峠状のポイントを過ぎると、前方に印南漁港が見下ろせるようになってくる。

津井(叶)王子跡 13:17

 津井王子の道標に従い、山手に左折。しばらく急坂を登ると、王子跡の森へ。
 「熊野道之間愚記」の建仁元年(1201年)10月11日条に「ツイノ王子」とあり、近世には吐王子(ついおうじ)と称されたらしく、「紀伊続風土記」にこの名で記載されている。
 1908年(明治41年)、山口八幡神社に合祀され廃絶した。
 国道に戻り、少し進むと、印南港の交差点。右の脇道を海沿いに進む。

印南港 13:29

 港には「かつお節発祥之地」の看板が立つ。印南港の漁民が現在の製法を開発したらしい。
 再び国道に合流し、時計回りに港を半周する。

印南港の内湾 13:37

 平和橋から集落に入り、細道を駆け上がると、風情ある印南港の内湾が一望できる。
 山沿いをしばらく進むと、斑鳩王子跡である斑鳩王子社が現れる。

斑鳩王子社 13:50

 斑鳩王子は、熊野九十九王子の中でも最も創立の古い神社で、平安時代、塩屋、切目、岩代の各王子とともに栄えていた。「熊野道之間愚記」建仁元年(1201年)10月11日条に「イカルガ王子」と見えるが、「紀伊続風土記」は富王子の名で記録し、中世参詣記にある「いかるか王子」の跡であるとし、この辺りの地名を光川というのは「イカルガ」から転じて光川の字を当てたからと思われる。
 1908年(明治41年)に山口八幡神社に合祀されたが、1950年(昭和25年)に分祀され、現在に至っている。

切目王子社 14:00

 国道脇のなだらかな側道を進むと、前方に森が見えてくる。切目王子社は深い森の中に佇んでいた。
 切目王子は、九十九王子の中の五体王子社として高い格式が与えられ、「熊野道之間愚記」の建仁元年(1201年)10月13日条には参詣後に宿所で歌会を催したとあるなど、多くの中世熊野参詣記に記録が見られ、後鳥羽上皇が切目王子で開いた歌会の記録(切目懐紙)の写しも残っている。
 天正13(1585)年、豊臣秀吉による紀州攻めの兵火で焼失したが、氏子等により再建された。江戸時代に入り寛文2(1663)年、紀州藩主徳川頼宣から御戸帳・絵馬などが寄進された。
 現社殿の拝殿は、明治41(1908)年に再建されたものである。

JR切目駅 14:10

 切目橋を渡り、古い町並みを抜けると、JRのガードが現れ、すぐ右手が切目駅。
 切目という地名は『万葉集』(巻十二 3037番歌)「殺目山 行きかふ小道の 朝霞 ほのかにだにや 妹に逢はざらむ」にも残っており、昔ながらの地名であることが分かる。
 今日はここで終わっても良かったが、まだ余裕だったので、明日の負担軽減もあり、岩代駅まで歩くことに。先ほどのゲートをくぐる。

印南港を見下ろす 14:29

 集落の中を進む。細い道を道標に従い登って行くと、若宮社遺跡を過ぎると、新しい車道工事で道が寸断される中、何とか道標を拾い、登り続ける。
 中山王子神社の手前で、パッと眼下が開ける。これまで歩んできた印南港が一望のもと。

中山王子神社 14:30

 ここが切目中山王子跡である。「熊野道之間愚記」には山を超えて参詣したとあるため、この場所ではなかったらしいが、旧地は定かではない。
 この先の榎峠を越えた中山谷にオジヤ谷と呼ばれる一帯があり、その地名から旧社地であると考定されている。
 さらに榎木峠へ向かうが、道標を見逃し、かなり北の方へ進んでしまう。GPSで間違いに気づき(ホンマに便利な世の中になりました)、戻ると、車道から山道が分岐するところにしっかりと「岩代王子へ」の標識があり、しばらく山道を進むと、榎木峠でまた車道に出合い、寂し気な山中の車道を黙々と下っていく。

榎木峠から下ったところの民家 14:50

 峠からかなり下って、ようやく民家が現れる。梅干しの仕込みをしているようで、辺りは梅のすっぱい匂いが漂っていた。
 さらに下り続けると、ようやく海沿いに出た。ここには、江戸時代の念仏行者で、ただひたすら「南無阿弥陀仏」を唱え日本各地を巡った、徳本上人の名号碑が立っていた。

有馬皇子結び松の記念碑 15:20

 岩代大梅林の麓を海沿い進む。途中、有馬皇子の結び松の記念碑が立つ。
 斉明4年(658年)、孝徳天皇の皇子、有間皇子が、蘇我赤兄の甘言で謀反の罪に問われ、斉明天皇と中大兄皇子の旅先の「紀湯(白浜湯崎温泉)」に護送される途中、岩代で松の枝を引き結んで、岩代の神に自分の平安の無事を祈り、歌を詠んだとされる。
 しかし、有間皇子はその帰途、19歳の若さで藤白坂で絞り首にされた…
 国道を少し進むと、岩代王子は近い。

岩代王子跡前の浜 15:31

 岩代王子跡のすぐ目の前は海。遥か白浜のホテル群も見える。大阪から良くやってきたなあ…

岩代王子跡 15:33

 岩代王子は、「熊野道之間愚記」の建仁元年(1201年)10月12日条に記述が見られ、社殿に参詣の人々の名を書き連ねたり、和歌を奉納したりしていたことが分かる。また、「平家物語」でも出家した平維盛が高野山から熊野に向かう途中に立ち寄ったとある。
 1909年 (明治42年)に近隣の西岩代八幡神社(みなべ町西岩代)に合祀された。しかし、合祀に関係したものが病に倒れたため、御神体を旧社地に戻し遥拝所にしたと伝えられる。

「更科食堂」さんで草履えびを堪能!@ 17:00

 岩代駅から車のある御坊駅にすぐに戻らず、いったん南部駅へ。お目当ては駅前の「更科食堂」さんである。
 開店と同時に入店し、草履えびの刺しとシビ(ビンチョウマグロ)腹身のお造りを堪能!

「更科食堂」さんで草履えびを堪能!A 17:09

 そして、草履えびの焼き! これにおでんを適当とビール2本で、3000円ちょっとと言う、ハイコストパフォーマンス!
 すっかり良い調子で御坊駅に戻り、車を置いた「宝の湯」さんでひと風呂浴びて、そのまま車中泊となった…  明日は、いよいよ熊野古道紀伊路のラスト区間、紀伊田辺を目指す。

参考タイム

11/21JR御坊駅 9:109:25 湯川子安神社 9:2510:10 岩内王子跡 10:1010:40 塩屋王子神社 10:4511:10 祓井戸観音寺 11:1011:25 清姫の草履塚 11:2511:30 はし長 12:0012:35 上野王子跡 12:3512:40 清姫の腰掛岩 12:4013:15 津井王子跡 13:2013:50 斑鳩王子社 13:5014:00 切目王子社 14:0514:15 JR切目駅 14:2014:30 中山王子神社 14:3515:05 徳本上人名号碑 15:0515:20 有馬皇子結び松の記念碑 15:2015:30 岩代王子跡 15:4015:45 JR岩代駅

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