−日本最古の「国道」の起点、難波大道をたどる−
山行概要
2021年5月15日(土) | |
難波大道 | |
晴れ | |
単独 | |
京阪天満橋駅=0:20=難波宮跡=0:55=堀越神社=0:05=JR天王寺駅=0:20=松虫=0:15=桃ヶ池公園=0:10=平和橋=0:30=近鉄針中野駅=0:05=長居公園北東入口=0:30=行基大橋=0:35=大泉緑地北西入口=0:20=金岡神社=0:15=大阪メトロ新金岡駅【4:20】 |
記録文(写真はクリックで拡大)
先週で横大路を完歩し、竹内街道、横大路と伊勢参宮本街道(初瀬街道)が接続し、堺から伊勢神宮までのトレースがつながった。
ここで満足しようと思ったが、やはり日本書紀の推古天皇21年(613年)の条に「難波より京(飛鳥)に至る大道(おおじ)を置く」と記載されていることから、難波から竹内街道へ接続する「難波大道」を歩かねばということで、2週連闘となった。
かなり暑くなることが見込まれたのと、昼から天気が崩れるということだったので、枚方を始発で出撃。
天満橋駅で下車し、5時半過ぎに歩行開始(笑) 朝日を浴びる大阪城天守を見ながら、上町筋を南下する。法円坂の交差点の南東角が難波宮跡の入口だ。
難波宮の歴史は大きく2つに分けられる。
前期難波宮は、大化元年(645年)の乙巳の変の後、孝徳天皇が難波に遷都したことで始まる。宮殿は白雉3年(652年)に完成した。大化の改新と呼ばれる諸改革はこの宮で遂行された。
孝徳天皇を残し飛鳥に戻っていた皇祖母尊(皇極天皇)は、天皇が没した後、斉明天皇元年(655年)1月3日に飛鳥板蓋宮で再び即位(重祚)し、斉明天皇となり、難波宮から都が移された。
天武天皇12年(683年)には、天武天皇が複都制の詔により、飛鳥とともに難波も都としたが、朱鳥元年(686年)正月に難波の宮室が全焼したため、廃された。
後期難波宮は、神亀3年(726年)、聖武天皇が藤原宇合(うまかい、不比等の三男で藤原式家の祖)を知造難波宮事に任命して難波京の造営に着手させ、平城京の副都としたことに始まる。
その後、聖武天皇は平城京から恭仁京へ遷都を行ったが、天平16年(744年)2月には、難波京への遷都が正式に発表された。
しかし、難波宮はショートリリーフ的な扱いであり、翌年の天平17年(745年)の元旦、難波京から紫香楽宮への遷都が正式に発表された。こんな短期間で都をコロコロ変えられたら、役人はたまったものじゃなかったでしょうね…
延暦3年(784年)、桓武天皇により長岡京に遷都された際、大極殿などの建物が長岡京に移築されたという。
難波大道は、難波宮の南門から真っ直ぐ南下していたと思われるが、都市開発で跡形もなくなっており、真っ直ぐ進むのは困難であり、大阪府のHPに掲載されているモデルコースでは、いったん西の谷町筋を南下することになっている。
南下を続ける。どんどんハルカスが近づいてくる。「四天王寺南」の交差点を過ぎると、西側に堀越神社が建つ。
境内には様々な小社が林立しているが、その中に熊野第一王子之宮がある。元は天満橋の八軒家浜近くにある熊野九十九王子の第一王子・窪津王子で、四天王寺西門の近くに熊野神社として祀られていたが、大正4年(1915年)に現地に移された。
堀越神社の境内は緑が濃く、谷町筋に接していることを忘れさせてくれる。
堀越神社は、聖徳太子が四天王寺を創建した際、歴代天皇で唯一暗殺された崇峻天皇を祭神として風光明媚な茶臼山の地に社殿を造営したのが最初と伝わり、四天王寺七宮の一つに数えられる。
創建当初から明治時代中頃まで境内の南沿いに堀があり、この堀を渡って参詣したことが社名の由来だとされている。
古くから「一生に一度の願いを聞いてくださる」と、全国から多くの尊崇を集めている。
あべの橋で谷町筋はあべの筋と名を変えるが、そのままアーケードを南進。阪堺電車に沿って進む。ついに通算44日に達した熊野古道歩きの紀伊路の出発ルートであり、想い出深い。
「松虫」の交差点まで来た。ここで熊野古道は右斜め前の細街路となって分かれていく。
私は大阪府のモデルコースに従い、左折し、松虫通を東へ進む。
大阪メトロの昭和町駅の地上を通過し、阪神高速松原線の高架が見えてくると、手前に桃ヶ池公園がある。3年前に下高野街道を歩いた際にも訪れたところだ。難波大道もこの辺りを南下していたようだが、適当なルートが残っていないので、そのまま東へ進む。
近鉄の北田辺駅の南側を進み、さらに東へ。だいぶ暑くなってきた。
平和橋を渡ってから右折し、今川左岸沿いに「今川堤の花の道」を南下する。
気持ちの良い散策路が整備されており、日陰なので助かる。湯里東の交差点で今川を離れ左折し、西へ。
高架をくぐったところが針中野駅のすぐ南だ。さらに西に進み、「鷹合1」の交差点を左折し、長居公園東筋を南に少し進むと長居公園の北東入口に到着。
公園内を時計回りに進んで行き、公園南側の長居公園通を横断し、ローソンが南東側に建つ交差点から南へ街路を進んで行く。矢田西公園の所で左折し、長居公園東筋に出たら、また南へ進む。
大和川の堰堤に上がり、行基大橋で川を渡る。すぐ東隣の下高野橋は、3年前の下高野街道をやった際に渡った橋だ。
渡ると松原市に入る。以降しばらく府道26号線をひたすら南へ進む。暑いし単調だ…
堺市に入り、府道が右にカーブしだすと、ようやく大泉緑地が見えてくる。
北西入口から、広大な園内へ。長居公園と同様、大勢の人がジョギングしている。
大泉緑地は、昭和16年(1941年)の防空緑地計画に由来する大阪四大緑地(服部・鶴見・久宝寺・大泉)の一つであり、現在も防災計画上は約17万人の広域避難場所に指定されている。
のんびりと園内を南下し、緑地南西隅の「新金岡団地東」交差点から一つ南の交差点で、竹内街道に合流する。難波大道はここで終了となる。
右折し、西へ竹内街道を進む。3年前に逆方向に歩いているので、記憶も鮮明。すぐ金岡神社である。
金岡神社境内社の白龍大神。背後の楠の巨木振りが凄い。
3年振りの参拝。
仁和年間(885−889年)に、底筒男命(そこつつのおのみこと)、中筒男命(なかつつのおのみこと)、表筒男命(うわつつのおのみこと)のいわゆる「住吉三神」(伊邪那岐命が、黄泉国から伊邪那美命を引き戻そうとするが果たせず、「筑紫の日向の橘の小戸の阿波岐原」で、黄泉国の汚穢を洗い清める禊を行った際に生まれた神々)を祀ったことにより創建されたと伝えられている。
難波大道の南端に存在しているという説もあるが、エビデンスは見つかっていない。
参拝を終え、後は住宅街を大阪メトロ新金谷駅までのんびりと歩き、難波大道歩きを終了。
これで、天満橋から伊勢神宮までの長大なルートがついに繋がった。
家に帰ったのは11時(笑) 家で昼呑みの祝勝会を一人であげた。
参考タイム
5/15 | 京阪天満橋駅 5:35 ⇒ 5:55 難波宮跡 5:55 ⇒ 6:50 堀越神社 6:50 ⇒6:55 JR天王寺駅 6:55 ⇒ 7:15 松虫 7:15 ⇒ 7:30 桃ヶ池公園 7:30 ⇒ 7:40 平和橋 7:40 ⇒ 8:10 近鉄針中野駅 8:10 ⇒ 8:15 長居公園北東入口 8:15 ⇒ 8:45 行基大橋 8:45 ⇒9:20 大泉緑地北西入口 9:20 ⇒ 9:40 金岡神社 9:45 ⇒ 10:00 大阪メトロ新金岡駅 |
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